拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊(白金)では4月22日より5月27日まで和田真由子個展「建物」を下記の通り開催する運びとなりました。
和田は、「イメージにボディを与える」というコンセプトのもと、頭の中で和田が思い描いている「イメージ」を現実空間に可能な限りそのままの状態で具現化するという試みを多角的なアプローチから作品化してきました。写生する時のような目で見える実際の物を作品化するのではなく、和田が取り扱うのはあくまで「イメージ」、つまり内的な視覚現象についてです。
目で見る事、つまり視覚によって得られる情報は、意味的にも実際的にもそのもののある一面でしかありません。例えば、真向かいにいる人を見る、という場合においてその人の後頭部や横顔は見えず、もっと言えば、その人が張りボテでないことを確かめる術は手で触れるか、その人の周りをぐるりと巡ってみるしかありません。しかし、普段の生活においてその必要性がない事からも理解できるように、経験や知識、常識、その他の五感によって不足している情報を補完する事でより正確に対象を認識している事は言うまでもありません。その点からすれば、絵画においては、単一では力不足である視覚を主に頼らざるを得ないため、それを補う役割を担うのが「絵画のイリュージョン」とも呼ばれる遠近法などの空間を擬似的に感じさせる技術です。しかし、絵画が「平面」という二次元に縛られた条件下において、更に作者と鑑賞者の間で「空間ではない」ことの予めの了解がある上で、それでも様々な錯視を使って空間を演出する必要性がどこまであるのでしょうか。例えば、ここにレンガが一つあると仮定します。極めてシンプルな見方をすれば、直方体であるレンガを斜めから見れば、それは決して六面体としては見えず、連結した3つの平行四辺形と、焼けた土のザラザラとした質感、そしてあの特徴的なレンガ色、それ以上でも以下でもないはずです。しかし、絵画としてレンガを描くのであれば、その3枚の平行四辺形を取り繕ってそれらしく見せることに腐心するよりも、裏側に隠れた面も見えはしないがあるものという知識に従って想像し、6枚の平行四辺形からなる六面体として描くことこそ「斜めから見たレンガの描写」としては正しいのではないでしょうか。極論ではありますが、和田の考える「イメージ」の在り方は基本的にこの原則に従っています。であるならば、和田が可視化しようと試みている頭の中で思い描く「イメージ」とは、上述のレンガの見方と同様かそれ以上に単純化された状態であると想像する事は容易です。何かを思い描くという行為は、経験や知識、常識、その他の五感によって蓄積した情報を付加して「イメージ」の再構築を試みるという事だからです。つまり、「イメージ」されたその状態が唯一にして全てであり、写生をする際のように実物と照らし合わせて正誤を確認する必要もない、さらに言えば、和田の「イメージ」である以上和田が絶対的に正しく、誰に阿ることなく「イメージ」して率直に具体化することを考えれば良いのです。よって、「イメージ」を絵画にする、という場合、その拠りどころとなり得るのは自らの思い描いた「イメージ」のみであり、だとすれば「イメージ」をあるがままに再現すること=「イメージにボディを与える」という行為こそが絵画制作である、という和田のロジックが成立します。詭弁のようですが、しかし、和田なりに絵画をシンプルに突き詰めていくことによって得られた道筋は、なぜか従来の絵画が辿って来た「イリュージョン」の世界とは別ルートを示したのです。
和田はこの「イメージにボディを与える」実践として、様々なアプローチを試みています。極力自分でも「イメージ」しやすいものをモチーフに選ぶ事で、問題を単純化し、ケーススタディを蓄積しています。例えば「建物」を思い描いたとします。それがいかに物理法則に逆らうような、現実には不可能な形をしていても、「イメージ」できたという事は絵画としても成立し得る訳で、それは絵画が古今東西ありとあらゆるファンタジーを受け入れて来た所以でもあります。よって、和田もまた、「イメージ」を落とし込む先として、平面上に描くことを第一に選んでいます。しかし、和田の単純ならざる点は、それがただ描くだけではなく、再現でなくてはならない点にあります。
レンガを積むことで壁を作る、そしてその壁を支えに屋根がある、という構造的な点、そしてその建物をどの視点から眺めているかという点、そして、その建物がいかに具体的に「イメージ」できているかという強度、それらが「イメージ」の要素です。実際の絵画制作では、レンガを積む行為が、レンガ一個づつの輪郭を丁寧にマスキングで成型しながら、しかも透明マットメディウムやニス、時には紙粘土ペーストなど、それなりの厚みと質感を持つ画材によって描かれます。透明素材で描くことや紙粘土のような造形的な素材を画材として使うことで、壁面の重なりや天井、屋根の構造的な部分の描写が建築的な手順と空間法則に従って描かれ、前後や上下の関係性が視覚的に守られるようにレイヤーが可視化されています。また、製図の透視図法と同じく、斜めから見れば平行四辺形の組み合わせ、あるいは真正面から見れば長方形のファサード、和田が頭の中で建物をどの角度から見ているかによって、形状が変わってきます。「イメージ」の強度という点では、例えば硬いもの、明瞭なもの、その感触が明晰な「イメージ」に対してはベニヤ板などの硬い素材やシャープな形質が与えられます。逆に知識や経験の不足から曖昧な「イメージ」しか得られなかった場合にはビニールシートなどの柔らかく視覚的にも不安定な素材が用いられます。
これまで、この方法論に従って、建物、ヨット、馬、鳥などの「イメージ」を繰り返し作品化してきましたが、あくまで典拠となるのは自身の「イメージ」に限るため、例えば平面上では成立している上記の製図的な図法が、立体的な造形においては破綻を来す、ということもあります。和田にとって「イメージ」は良くも悪くも絵画的、平面的視覚体験なのですが、「建物」として想起した以上はそれは空間内においても建っていて然るべきという思いが強くあります。平行四辺形で構成されている斜めから見た建物を、その通りの形に板を切り出して組み立ててみたところで、自立する術はありません。しかし、和田にとってはそれ以上の「イメージ」を持たないが故に、それを無理やりにでも自立させようとする、という不条理ながらの立体的アプローチの作品なども制作しています。これらもまた、和田の論理から言えば絵画の範疇であり、「イメージにボディを与える」という行為の一つの試行であるのです。
今回の個展では「建物」という展覧会名を選び、英語訳としては「Built structures」という語を当てています。「Archtecture」でも「Building」でもなく、建てられた構造、というその語感には和田の意図が透けて見えます。「イメージ」するということが和田を行為者としての強者の位置に立たせます。つまり、和田が「イメージ」する範囲においては何がどうなってもそれは絵画的に成立し、対象が先に存在するのではありません。立体的アプローチにおいても、平面的アプローチにおいても、和田にとって作品制作は描くと同時に「組み立てる」行為である、と言い換えることができます。何もない想像上の空間に、地平を作り、そこに何かを思い描き、「イメージ」を「組み立て」ていくのです。画面上においても同様に、頭上で行ったプロセスをなぞって実際的な物質と「イメージ」の折り合いを付けながら「組み立て」ているのです。建物が建っているという与えられた条件下にあるのではなく、「建てられたもの」であると敢えて言うことによって、想像上と画面上のいずれにおいても和田が建物を「組み立てる」行為者であることを示しています。「イメージ」を「組み立てる」、あるいは「イメージにボディを与える」と呼称して虚像に実体を持たせる行為こそが絵画であるという、和田の意思がそこに見えるのです。今回の個展では、平面上に「建物」を建てる作品、つまり建造物でありながら絵画でもある作品シリーズに限定した展覧会構成で、和田の「イメージ」における「建物」についての狭義が示されることになりますが、我々は常に先行する和田を追従するより他ありません。
つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
作家名: | 和田真由子 (Mayuko Wada) |
展覧会名: | 建物 |
会期: | 4月22日(土)より5月27日(土)まで |
営業時間: | 11時-19時 日・月・祝休廊 |
オープニング: | 4月22日(土)18時より |