拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊(白金)では6月3日(土)より7月1日(土)まで、杉本圭助「物理、霊媒」を下記の通り開催する運びとなりました。杉本はこれまで平面作品、立体作品、パフォーマンス、あるいはそれらを複合的なインスタレーションとして構成するなど多次元的な作品展開を続けてきました。
杉本は一貫して「人間」についてをテーマとして作品制作を行っており、作品の中に現れてくる有機的な造形、マチエール、素材などは、その思考を視覚的に置き換えたものです。学術的でもなく、生物的にでもなく、作品制作を通して「人間」についての概念的な定義付けをする、という非常に困難な試みです。以前杉本は「理論と公式」という表現を用いて説明しましたが、まず人の基本的な性質を弁証法的な態度において仮説を立てることから始めています。Aという(テーゼ=「理論」)とBという(アンチテーゼ=対概念)の対立によってCという双方を包括する術(=「公式」化)を得る、その繰り返しによって、「人間」とは社会的にも物質的にも精神的にも形成されているというのが杉本のさしあたっての仮定でした。そして、仮定を作品として表すにあたっては、素材や構成の面で相反する要素を取り入れながらどうにか調和させることで「理論と公式」の関係性の実践を試みてきました。しかし、作品を一瞥しても俄かに「人間」らしさが現れているわけではなく、目に見える手がかりを元に読み解いていかねばなりません。
2000年代より継続しているパフォーマンスシリーズの「Chanting」は、構成としては何か特定の基本動作や基本所作を基軸に、衣装、道具なども含めて非常にシンプルに記号化された形式的(あるいは祭儀的)なものとして演じられます。それと同時に、無意味とも思える発声や歌とも唸りともつかぬ原始的な音/響き、予測不可能な突発的な動作が時間軸を捻れさせるように不安定なリズムを作り出します。パフォーマンスという形を留め置くことができない手段であるからこそ、構成と行為のアンバランスな関係を拮抗させることでその場その瞬間の緊張の余韻が空間に残ります。観衆は儀礼の参列者でもあり傍観者でもある立場から作家の行為の余波を受けてそれぞれにその現象を咀嚼します。宗教的な見地でスーフィズムやアニミズムのような例に拠って考えるならば、単純で形式的な行為の繰り返しの中に「人間」のプリミティブなものとの共鳴を探り当てる試みと言えるでしょう。
2013年の個展「不自然の状態」(児玉画廊|京都)で見せたようなタペストリー状の作品や木製彫刻によるインスタレーションにおいては、作品の構造から推察すれば個別の作品はそれぞれが皮膚や衣服、肉体や骨格の比喩としても捉えられ、空間そのものが「人間」のある種直接的な表現であるという一面と、見方を変えれば作品一つ一つは謎めいた記号のようで意味を容易に解させないながらも、個々の間をつなぐ関係性を比較的単純に視覚化することによって、他との関係性といういかにも「人間」的な主題を浮かび上がらせる間接的な一面(例えば、紐などで実際的にモノとモノの繋がりを示すこと、作品があるモチーフを少しづつ変化させながらも継承しているような構成など)とが交錯します。こうした二面性を、作品個別の中に、小さな作品の群の中に、そして空間全体に、幾重にも入れ子状に持った構成によって、「人間」を読み解く「理論と公式」を空間的なモデルとして出現させるものでした。
今回の個展では、2013年より発表している「マネキン」に始まり、4年ほどの間に様々に派生した平面作品シリーズの新たな系譜を展観します。「マネキン」は、木製パネルの上に地層のようにアクリル絵の具を積層塗布し、彫刻刀を使って碁盤の目状の切り込み線を彫り入れた作品です。制作工程においては一作品あたり4-50層もの重ね塗りをし、その結果として、数ミリにも及ぶ絵の具の厚みが画面の有機的な凹凸を生み、また、軽やかな色彩に反して意外なまでの重量となります。表層は常に白色で統一されていますが、そのプレーンさの内側にいかほどのものが潜められているのか、それは鋭利に切り裂かれた彫刻等による彫り痕によってのみ文字通り断片的にしか窺い知れません。「マネキン」というタイトルは比喩的に付けられており、作品の画面には「マネキン」としての表象を示す要素はまるでありません。しかしながら、その響きから想起される作り物のイメージは、杉本にとって「人間の裏返し」を想起させるキーワードとして繰り返し用いられてきました。面を深く切り裂く線の内側に現れる色彩の様子によって、内側/裏側にあるものを予感させます。しかし、それは作家の手によって掘り起こされたものというよりも、むしろ内側からの能動的な発露として捉えるべきものなのです。この点において、杉本の作品がその怜悧な美しさと同時にある種の生々しさを感じさせる所以を見ることができます。
その後続となる平面作品では、絵の具の重層的な塗り重ねをベースとしている点では共通しますが、彫刻刀によってではなく、絵の具の乾燥による自然のひび割れや、絵の具の層の中に予め塗り込んだ紐を乾燥後に引き抜くといった手法によっても内側を見せる展開を始めています。彫刻刀による鋭利な線には、極めて静かで端正な美しさがあります。そこに、さらにやや動的な要因を加えていく意図をもって制作されているのが紐を利用した作品です。これは、例えば素描を走り描くような極めて動的な線の性質を杉本の平面作品に持ち込むための一つの解です。絵の具の層を重ねながら、随時紐を垂らして一緒に塗り込めていきます。そうすることで、紐は縦横に線を作り出すと同時に奥行き方向にも、つまりXYZ軸の三方向に動きを持った線を形成するのです。杉本はこれを次元を貫く「軸」あるいは「軌跡」と呼んでいます。必要な層を塗り、乾燥させた適切なタイミングで紐を引き抜くと、画面の奥から手前へと絵の具を斫り上げながら、まさに異なる層を貫きながら線描が出現していきます。それによって、紐が置かれていた層ごとに、その色彩の違いが画面上では一本の線描の中に異なる色彩が混在しているというように見えます。紐が抜けていくエネルギーに引っ張られて剥離した生々しい痕跡は、その力強さと瞬発力を感じさせると同時に、その質感は肌に現れた引っかき傷のような感覚を想起させます。また、ひび割れを利用した作品では、絵の具の水分量に応じて乾燥していく速度に差異があることを利用し、下層がいわば生乾きの段階で上層を重ねていくと、内側から蒸散しようとする力によって画面は次第に割れていきます。杉本は、この割れをある程度意図的に引き起こす工夫をしています。例えば、下層をある図形として描いておけば、その輪郭に沿って裂け目が生じるという具合に、画面上では偶発的なひび割れと、コントロールされた意図的な裂け目とが混在しているのです。内側から能動的に裂け目を生じるという現象はまるで画面が生きているかのような印象を与え、また、命が自ら内部を晒していくような感覚は「人間の裏返し」と杉本が表現するものに近似するのでしょう。
「人間」を考えることを通して、時間軸(パフォーマンス)や空間(インスタレーション)、次元(平面の層)といった物理学的な概念を美術という極めて感覚的な行いと接合させていくことは、まるで雲を掴むような行いであるでしょう。「人間」とは何か、それを既存の概念とは別の定義に求めるためには、見えないもの、知覚できない現象をも捉えて画面上に存在させる試みを続けなくてはならず、それを今回「霊媒」と呼称するのはそのもどかしさ故にです。まるで合わせ鏡のように際限なく続く「物理、霊媒」の二項対立から出るものが果たして「人間」の解となりえるか否か。つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
作家名: | 杉本圭助 (Keisuke Sugimoto) |
展覧会名: | 物理、霊媒 (Being made invisible) |
会期: | 6月3日(土)より7月1日(土)まで |
営業時間: | 11時-19時 日・月・祝休廊 |
オープニング: | 6月3日(土)18時より |