PRESS RELEASE

Kodama Gallery | Tennoz

ignore your perspective 52

「思考のリアル / Speculation ⇄ Real」

       

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ご案内

関係各位

拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊|天王洲では10月19日(土)より11月16日(土)まで、ignore your perspective 52「思考のリアル」を下記の通り開催する運びとなりました。是非ご高覧下さい。

記 :

    展覧会名:

    ignore your perspective 52「思考のリアル / Speculation ⇄ Real」

    出展作家:

    石場文子 / 大谷 透 / 貴志真生也 / 木村翔馬 / 野島健一 / 松下和暉

    会 期:

    10月19日(土)より11月16日(土)まで

    営業時間:

    11時-18時 / 金曜日のみ11時-20時 日・月・祝休廊

    オープニング:

    10月19日(土)18時より

ignore your perspective52 「思考のリアル / Speculation ⇄ Real」によせて

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 技術革新によって途絶えてしまう「技術」は数多い。GPSが発達した現代において、星や波を読んで夜を航海する技術は廃れる。アジアに存在する実に多様な炊き方や蒸し方が存在する米の加熱方法は、「家電」たる炊飯器の普及によって急速に失われてきているらしい。絵画が写真術の誕生を契機として「絶滅」しなかったのは、人間の根源的な部分に制作や鑑賞の快楽がビルトインされているからだったのだろう。その快楽は何より「現実を捉え直す」契機であることから来ている。絵画の根源的な現実認識の作法は「なぞる」ことだ。本展で紹介する作家たちから見えてくるのは、(若い)作家たちが、いま、どのように各々の方法によって、いまの現実をなぞろうとしているのかということだろう。 

 石場文子は、現実にはこの世に存在していない「輪郭線」を写真の中で実現させてしまう作品を制作する。日本画、そして版画という出自をもつ石場にとっては、「写真」という自動的な光学装置と、人間の認知のシステムに寄り添う「絵画」という存在の間にある齟齬と、それぞれを鑑賞する視覚モードの切り替えの際に訪れる「認知が揺らぐ」感覚が、石場作品の狙いとするところだろう。

 大谷透は、紙やすりや石膏ボードの裏といった部材や、パッケージを色鉛筆で塗りつぶし、図像を生み出していく作家だ。大谷は、普通の鑑賞者では出会うことのない、「制作するための道具」の裏側に可愛らしく描かれ、反復するモチーフに目を向ける。「制作への自己言及」は近代芸術の基本的な作法であるが、大谷は制作のそばに密やかに佇む可愛らしさにこそ注目しているかのようだ。大谷はその「可愛らしい」モチーフの周辺をこそ「なぞる」ことで浮かび上がらせている。

 貴志真生也もまた、垂木や養生テープ、石膏といった素材をそのままに用いるが、それは表現主義的な作者の生々しい心情を伝達するメディウムとしてではなく、デオドラントされ、清潔感をもったままのそっけない情感を伝える。そのそっけなさの一方でしかし巨大なインスタレーションは、彫刻性が成立するかしないかの最低限度を確かめているようでもある。

 木村翔馬はVRと並行して実際の画布にもペインティングを行う。複数のメディアを往還することは、それぞれのメディアが持つ特性や限界をあらわにするための有効な方策であるが、木村はVRという仮想的な、新しい空間での新しい身体性をもって、絵画を検討しようとしている。木村の中では、かすれるマーカーの線と、VR空間の線の2つの線の間に立ち現れてくる第三項こそが、絵画の可能性なのであろう。

 野島健一は、美術史において記述されてきた様式の変遷を、進歩史観的な見方や弁証法的な見方としてではなく、「病理的」な次元へと読み替えてみせる。ここで発生しているのは単なるシミュレーション(なぞる行為)ではなく、角度を変えたなぞり直しなのである。考えてみれば、作品が時代を超えて命を持つということは、この角度を変えたなぞり直しを幾度も許容するからにほかならない。

 松下和暉は、制作のモチベーションにアナグラムを導入する。言語的な操作は、急進派にとっては芸術を網膜的なものから引き剥がすための操作であったが、絵画が人間の認知の総体へと働きかける総合的なものであるならば、絵画をより豊かに使うためにもまた使用できるはずだろう。常に画家たちが絵画を手癖やマンネリズムから救うために虚心坦懐にモチーフを再び見つめるのと同様に、言語が持つ飛躍もまた、作家の手に新しい線を生み出させる動機となるのだ。

 絵画と彫刻の起源神話が、影をなぞることであったように、芸術の仕事は現実をもう一度「なぞり直す」ことだ。しかし我々が手にしているのはギリシャ人のランプだけでない。現代の作家たちが、それぞれの仕方でなぞり直す行為の中で、今の時代はもう一度捉え直されていくはずだ。

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 果たして展示が開始された。各作家の試みは、どのようなものなのだろうか。

 石場の試みは、輪郭線の問題から射程を更に広げ、「版画」という、インクがごく平面的に画面に付着する技法や、写真のメディウムたる「印画紙」の、余白と連続する平滑な表面といった問題にまで射程を広げている。眼前の作品がリテラルな表面であるのか、その奥に仮構された奥行きをもつのか、目の深度の振動――それは近代絵画の大きな達成であるが――をもたらすものとなっている。

 大谷は、自身が用意したスタンプを用いるなど、なぞって図像を浮かび上がらせるというよりも、「新しい図像を生成」するための霊感源として印刷された要素を用いている。これは勿論、「作者が一から図像を作る」こととは異なった帰結を画面にもたらしており、「印刷物」の繰り返すパターンというルールから生み出される独特の間合いを画面に導入している。

 貴志は、本展示では、インスタレーションに電光掲示板を持ち込み、各作品の解説を表示させている。しかしながら、その解説はこれまでの作品同様にそっけない、即物的な作法が共通している。映像作品では、動物のフィギュアや人物の顔写真を用いたゲームらしきやりときが、画面を左右に反復する円とともに示される。そこに立ち現れる「ルールらしき振る舞い」は、鑑賞者にそームのルールを解読させようとするのではなく、反復するリズムも手伝って、ただ「ルールらしきもの」を「鑑賞」させようとする。その磁場は、貴志の造形作品と共通するものだ。

 木村は、本展ではドローイングを出品している。これは絵画における構図の問題に取り組むエチュードらしい。たとえば「蟹」は、四角い体と放射状の足によって、自動的に「絵画的な構図」となる、と木村は言う。ひとたび「構図」という尺度を手に入れれば、それは「世界から構図を発見する」目となるのだ。

 野島の作品におけるテキストは、絵画の美術史的理解を一度解除し、鑑賞者を再び「新鮮な目」で作品と向き合わせることを企図しているだろう。しかしながら、その絵画の画面とテキストにも「落差」が存在していることを――たとえば病理と言うには、あまりに健全さを持った筆使いを――鑑賞者の「新鮮な目」は見逃さないはずだ。そのテキストと画面のズレこそが、鑑賞者を「自律した目」へと至らせる。

 松下は今回、旧作の裏面に新しく作品を描いているという。ある文字、たとえば「D」という文字の形状と、その音のつながりは恣意的なものに過ぎない。だからこそ、アナグラムでバラバラにされた文字が全く別の意味を持つという「飛躍」が可能なのだ(これが象形文字を受け継いだ表意文字である漢字であれば、そのような「飛躍」は期待できないことが分かるだろう)。だが、「一つの事物の裏と表」で記号の組み換えが行われることで、その「飛躍」の一方の絆が改めて確認されるだろう。

 作り手は常に霊感を求めている。それの成功を見つけるというよりも、その霊感を求める途上に――それぞれの作家の成そうとしている方法論に注目してこそ、鑑賞者はより豊かな達成を見つけることができるだろう。

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