拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊(白金)では7月8日(土)より8月12日(土)まで、大久保薫「理想郷」を下記の通り開催する運びとなりました。
大久保はこれまで一貫して人間の身体をモチーフに、それを形作っている「肉」について如何に画面上に表すかをテーマに絵画を制作、発表してきました。児玉画廊では白金アートコンプレックス合同企画展「メメント・モリ」(2013年)、初個展「He」(児玉画廊|京都, 2014年)他、断続的に紹介して参りました。その都度、段階的な変化を遂げながら凄みを増していく作品は常に鑑賞者の感情を強く揺さぶるものでした。あまりに直接的かつ衝撃的な「肉」の表現、しかしそれに起因する感情は嫌悪や忌避というより、翻って、尊厳あるいはありのままの美しさのようなものを感じさせます。
大久保の作品は、そのほとんどが男性の裸体を露骨に描いたものです。「メメント・モリ」展での初出当時の作品においては、130号~150号程度の大きな画面に、かつての宗教絵画を思わせるような構図と重厚感のある筆触、それらが示威的とも思えるような圧倒的な作品を制作しています。「重さ」と大久保は言いますが、荘厳なキリスト教宗教絵画やルネサンス〜マニエリスムによって追求されてきた身体表現の構図や人物のポージングを援用することで、それらの持つ「肉」の表現上の「重さ」を自身の絵画にも加えようという試みです。それは目論見としては成功し、大久保の作品に感じる壮大なボリュームはこの点によるところが大きいでしょう。一方で、大久保の作品は宗教絵画とは似つかぬ内容であり、表面的にはむしろフェティシズムや嗜虐性を感じさせるようなものが多く見られます。しかし、大久保の作品はそういった欲望や感情の露呈を目指しているのではなく、まして作家自身にそういった傾向があるのでもなく、ただ「人間」というリアリティを感じさせるシチュエーションを選んでいく中において、よりその強度を持つものを画題として取り上げていただけに過ぎません。多くはメディアやネット上で見た画像などから着想を得ています。しかし、それらをそのまま描くことはせず、腕がその形質を諳んじる程の夥しい数のドローイングや習作を経ることによって、イメージを篩に掛けて、極力感情や主観を排斥していきます。幾多の習作を重ねることで、次第にイメージに対する感情や執着、少なからず誘引される欲望などが次第に薄れ、より描写は形骸的なものになっていきます。最終的にキャンバスに向かうその瞬間においては、画面上には既に大久保薫という作家性は姿を表さず、そうすることによって初めて「肉」の本質、或は客観的な人間像に迫ることができるはずである、というのが大久保の目指す絵画の到達点としてあったのです。ポルノを見て欲情するより美しさに胸が詰まることは少ないでしょうが、同じく裸体や性描写を主題にした美しい作品は数多存在しているのと同じように、同様の主題であっても目的と手段とによって、あるいはそこに働く感情において与えられる結果が左右されるのであれば、大久保はまず自分という主観を作品から排除することを考えました。
主観を排除することが、ひいては「肉」の表現を美に至らしめる、という強迫観念は大久保を縛り続け、その目的に至るべく様々な手法を試みてきました。その一つに、長い柄のついた筆を使って、キャンバスから遠く離れ、その描き難さをもって主観的な描写から脱却する、という作品を制作しています。それらの作品は、いかにも苦心惨憺と描かれたであろう不安定に震える線描と、的を得ない構図とで作られた画面は、技巧とは掛け離れています。しかし、その拙い描写は必死にそれに向かい合おうとする大久保の真摯さをそのまま掬い取って、たとえモチーフ自体が如何に過激で露骨な内容であったとしても、要らぬ感情を覚えずに作品を目向かいにすることができるのです。しかし、長い柄で描くことに慣れてしまえばこの方法も意味をなさず、大久保は別の道を探り始めます。
グループショー「人見ヶ浦より」(児玉画廊|東京, 2016年)で発表した作品では、網を画面に敷いた状況で描いたモザイク状の人物画や、柵や金網で遮られた奥にいる人物を描く作品等、直接ではなく物理的に間接的な捉え方で人物を描き、自分(主観)を捨てるのではなく、今度はモチーフを遠ざけることによって同様の結果を得ようとしました。目を向けようにも遮られては全てを窺い知ることは出来ない、けれども、だからこそより心理的には強くその対象に意識が向けられるのであり、同時にそれは、大久保自身も鑑賞者も、その誰しもが同じフィルター越しの眼差しにならざるを得ないことを意味しているのです。
そして、今回の個展では、目に見えないながらも大きな変化として、これまでこだわり続けてきた主観を排することを辞めています。展覧会タイトルにある「理想郷」とは作家の思う絵画としての理想を意味します。理想とは、未だ到達し得ない憧憬である、とも読み替えられるかもしれません。大久保の描く男性像は作家の深層にある強い男性像、コンプレックスの鏡像でもあり、そうして自身の作品を顧みると一人孤独に佇んでいるようにも思える男性が、寂しさ故に神に伴侶を懇願した原罪の男性アダムを想起させたことにも由来します。それは首都圏の喧噪から遠く離れたアトリエに隔絶された生活を送る作家自身の姿とも重なるのだと言います。いくら主観を排除して描こうにも、結局はいずれかの形で自らに還ってきてしまう以上、頑に否定してきた主観をいっそのこと受け入れてしまうことでどうなるか、それを試したいのだと作家は言います。孤独な男性像、孤独を悲しむアダム、主観を捨て去りながら孤独に喘ぐ作家自身の奇妙な符号、それは作家に何か大きな示唆を与え、「肉」を客観的に捉えるのではなく、「肉』そのものである自分自身を受け入れる決意を促したのです。アダムが逡巡の果てに禁断の果実を手にして楽園での安寧を失う代わりに苦しみと喜びを人のものとしたように、大久保も「理想郷」を届かぬ憧憬では終わらせぬよう、主観から離れさえすれば、という過信を捨て去り、新たな苦しみと喜びの地へ嬉々として踏み出すのかもしれません。
つきましては本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
作家名: | 大久保 薫 (Kaoru Okubo) |
展覧会名: | 理想郷 |
会期: | 7月8日(土)より8月12日(土)まで |
営業時間: | 11時-19時 日・月・祝休廊 |
オープニング: | 7月8日(土)午後6時より |