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ignore your perspective 41

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ご案内

関係各位

拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
 児玉画廊|天王洲では7月14日(土)より8月10日(土)まで、ignore your perspective 42「友愛の文法」を下記の通り開催する運びとなりました。いずれも児玉画廊では初発表となる、磯崎隼士、野島健一、松下和暉の三名を紹介致します。
 磯崎、野島、松下は、アーティストコレクティブやユニットのようなまとまりのある活動をしているわけでもなく、同時代を過ごし、自分を取り巻く人間関係も似たようなもの、互いにそういう友人関係にとどまります。しかし、彼らの作品を初めて見た際にふと通底するものを感じたことに端を発する今回の展覧会は、彼らに個別に話を聞いてみた結果として、ただの友人よりは多少近い制作上の共感を常々感じている、という趣旨の言葉がそれぞれの口を突いて出たことからも、限りなく偶然に近い必然であったかもしれません。
 以下の作家紹介は、三名がそれぞれ今回の展覧会に向けて顔を寄せ合いながら書いた私信的なテキストを併記します。いわゆるアーティスト・ステートメントではありませんが、展覧会という一つの主題を三名がメタフレーズしたものであり、この特殊な展覧会の一つの側面として記載します。

磯崎隼士
「この展示は、三人が共通の時間を過ごし、それぞれの考えに従って一つの空間に物が並べられる、その蓄積によって一つの展示が作られる。それは、展示や制作という事柄の中で起きる人間の有機的な生を強調し、人間が生きる事そのものに対して接触を試みようとするもの。」

 死生観、と磯崎は言いますが、路上でのペインティング制作から、写実的な人物モチーフの作品、刺青を施した皮膚を生々しく再現した肌色のシリコン作品、構造的なインスタレーション作品まで、様々な変遷を経てなお、生と死とについて一貫して考察し続けています。生と死のリアリズムでありつつも、ただ暴力的に生々しいだけではない磯崎の作品はどこか死への悲観すら超克しているようにも感じられます。今回の展示では本を暗示するような構造の絵画とも彫刻とも取れる巨大なオブジェを発表します。

野島健一
「『人は大切でないものを描きはしない』これは絵でなくても同じことが言えるだろう。しかしこの言葉が指し示すことは、この世には描く必要もないどうでも良いもの事はある、とも読める。『世界を過不足なく表現できている』とはこの意味においてどのようなことか?そのような個々の作品が同じ部屋に集まることによって世界の有り様を問うのなら、過不足ない部屋の部分としての作品の不足さとは?あるいは、恣意的に『世界の大切なもののみを選びとり表現された作品』が並び、一つの部屋で互いの不足さを補い合うことで成り立つことに本質的な充足はあり得るのか?芸術的な思考をする人は世界も生活も日常も芸術と呼べないものなどない、という人もいるだろう。しかしそれでは、文字どおりすべてが芸術なのだから芸術とは存在しないも同義だろう。逆に芸術というものは特定の場所やものでのみ体験できるというものだとしたら、ex(外に)-press(押し出す)でも、re(反復して)-pre(前に)-sent(存在(させる))でもなくなってしまうだろう。芸術的生産とその循環とは、どのように内的な循環を続けながら外へそして人やものと場所を分有してもなおその固有性を主張するのか。個人的な結論から先に言えば、それは友人と約束して椅子に座りながらたわいもない話をして、また会う約束をして別れることと同じように思う。カフェで共にする時間の中で、テーブルの上のカップやスプーンが位置を変えながら動き回り、お店を出て行く頃には綺麗さっぱり下げられて次の来客を待つ。そのようなものだと三人で話しながら感じる。」

 野島は、図像的イメージを先行とせずに、思考を論理的に分析してから形象に転化していくようなプロセスで制作をしています。特に「循環」というキーワードが示すのは、思考の整合性であり、構造的な合理性であり、生命の循環(生体的な意味での循環器)のイメージでもあります。「循環」のメタファーとして木材由来の合板を主素材に、そこに流線型の紋様(植物的)を彫り込み、構造的には回転するコンパスを立ち上げたような作品を展示します。思考することと制作することを、理解することと見ることの関係性にシフトして可視化を試みます。

松下和暉
「磯崎、野島、松下は今回の展覧会へ向けて三人で集まり、それぞれ異なる動機をもった制作、作品について互いに理解を深めることをしてきました。三人で直接会い同じ場所に居ることやそこで過ごした時間、過ぎ去った時間を経験し、時間がきたら別れる。そのような場所の経験こそを、ひとつの展覧会の中で集中的にフォーカスして扱えないかと考えてきました。それは見るという経験よりも、『展覧会会場で過ごす』という経験により近いものです。この見るということと過ごすということの違いは点と線の違いのようなものだと思います。展覧会前の時間や展覧会後の時間を過ごすという経験は、展覧会自身と分割できないグラデーションのなかで溶け合っていき、展覧会はそのどこかで過ぎていく。私たちはこの経験の質を実現するために互いの制作や作品について深く知る必要がありました。それぞれの制作や作品の間に生じる、形→形未満のもの。この形未満のものを場所として成立させること、教会を教会とみんなが呼べるように。私たち三人が話し合っている喫茶店で展覧会が開かれ、展覧会会場で静かにコーヒーが飲まれればいい。」

 自らを詩人とも称する松下は、モチーフとなる対象にまずは言語的にアプローチすることから始め、オブジェや絵画を制作しています。自分の書いたテキストや既存の固有名詞など、元になるものは言語であり、そこからイメージの想起へと向かう過程で利用するのがアナグラムの手法です。言葉と絵画とを往復し、意味とイメージを換装していきます。

 彼らが展覧会の一つの仮想軸として選んだ「友愛」とは、多くの意味を読み取ることのできる言葉です。有名な古代ギリシャの四つの愛(Eros・Philia・Storge・Agape)のうちPhiliaを日本語では「友愛」と表し、フランスの国家スローガン(Liberté, Égalité, Fraternité)にあるFraternitéは「博愛」あるいは「友愛」と訳されます。今回の展覧会名の英訳として選んだ"Neighborly Love”は「隣人愛」と再翻訳できるでしょう。家族でも恋人でも、絶対的な神への愛でもない、友・隣人として互いに認め何かを共有するという愛。三人の作家が集い、構成し、解体する一連の展覧会という行いの中、その様々な地点において都度立ち上がる現象が彼ら三人の関係性によってのみ現れるとするならば。それを「友愛」と呼んでいるのです。そして、制作活動的には完全なる個である彼らの作品に「友愛」と呼べるだけの一定の共感が事実存在し得るとして、それはいかなる仕組みによるのかを思考するテーブルがこの展覧会であるとするならば、見定めるべきその仕組みを「文法」と見做すのはいかにも彼ららしい面白い発想であると思えます。画廊から差し出された展覧会というサブジェクト(主語)を、彼らはいかなる結びへと帰すでしょうか。つきましては本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

敬具
2018年7月
児玉画廊 小林 健



記:

展覧会名:

イグノア・ユア・パースペクティブ42「友愛の文法」

出展作家:

磯崎隼士 / 野島健一 / 松下和暉

会期: 7月14日(土)より8月10日(金)まで
営業時間: 11時-18時 / 金曜日のみ11時-20時 日・月・祝休廊
オープニング: 7月14日(土)午後6時より


お問い合わせは下記まで

児玉画廊|天王洲
〒140-0002 東京都品川区東品川1-3-10 TERRADA Art Complex 3F
T: 03-6433-1563 F: 03-6433-1548
e-mail: info@KodamaGallery.com 
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