拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊(白金)では5月26日(土)より6月23日(土)まで、井上健司「Cairn」を下記の通り開催する運びとなりました。本展が児玉画廊初紹介となります。
井上は、作家が自評するように、一つの画面の中に数々の異なる事象が多発するような絵画を制作しています。何か一つのモチーフに的を絞って描くポートレートや静物画のような形式の作品は僅少で、ランドスケープ、あるいは演劇の舞台のような、画面を即ち全体性のある一つの空間として捉えて描いています。それも極めて非現実的なものとして、です。非現実的でありながらも奇想や狂気の類ではなく、画面は非常にポジティブな明るさと和やかな幸福に満ちていることも特徴的です。
絵画の基本的な構成要素から見れば、線、色彩などの点においては極めて多種多様に交雑し、モチーフの点から見ても、同じ画面上に描かれているもの同士の関係性に、意味を読み取りがたい乖離があること、それはまず間違いなく鑑賞者に戸惑いを感じさせるはずです。強いて言えばコラージュの感覚に近いような、あるべき関係性を再構成したり、期待される脈絡を意図的に無視しているかのように思えます。例えば、数珠繋ぎに手を取り合って踊る多数の人物、足元はダンスフロアか板張りの舞台のようで、遠景は次第に海とも空ともつかない青の中に消えていく、そのような描写がカラリとした極めて明るい色彩と柔らかな筆致によって描かれているのです。それは何とも唐突で、異様な光景ではあるのです。しかし、作品全体を覆う根拠の分からない肯定感によって、鑑賞者にこの非現実的な情景を甘受させてしまう不思議な魅力を湛えています。色彩は過多で不自然に混在し、画面を分断するかように不意な変化を見せる構図、色の塗りや筆致も一様ではなく、絵の内容を無視するようなマチェール。あらゆる要素が少しずつズレていき、画面全体に至ってはとても一度では咀嚼できないほどの無数の違和感に胸がざわつくようです。
「Cairn」、登山に明るくなければ聞きなれない単語かもしれませんが、登山道に石を積み上げて作る道標、或いは頂上を示す石積みのモニュメントのことです。井上の作品は様々なモチーフが画面上に散りばめられている点が大きな特徴のひとつになっています。それは、言い換えれば様々なイメージを組み合わせ、積み重ねているという事です。逆に、ある一つのモチーフが強い特徴を示すような描き方は抑えられています。例えば、描かれている人物に目を向けてみると、性格や役割を特徴付ける表情や振る舞いが判然とせずうまくプロファイルできません。特定の人物や個性を描いているのではなく、もう少し記号化、抽象化されたもののように感じられます。様々なモチーフがそれぞれやや希釈された存在感で描かれているためか、画面の複雑さの割には破綻はなく、むしろ調整を保っているように思えます。井上は「絵画から発された言語を頼りに山脈を登る」ような、と表現していますが、描いているモチーフそのものが何であるかを先に定めておくのではなく、絵具をキャンバスに置いた瞬間に発生する線や色彩に導かれるように、人物なり、風景なりが描かれていくのです。また同時に、その「絵画からの言語」を辿っていくことで「絵画として息づいていく」とも述べています。つまり、画面が一個の事象を捉えたカットではなく、数々の異なる事象が多発するシーンとして「息づいていく」という意味でしょう。このことが、画面上で様々なレベルで起こっている様々な違和感(色彩や構図やモチーフの唐突さ)の理由であると言えます。このように、常に全体性、多視点を重視したアプローチで制作しているからこそ、モチーフが複雑に混在する画面でありながらも、先に肯定感と評しましたが、全体として色彩やコンポジションの調和の美しさを強く感じさせるのでしょう。制作プロセスにおいて、常に作品と井上自身が双方向に投げかけをし合い、線、色彩、モチーフ、と段階的かつ同時多発的な変化があり、それを断片的に捉えては都度画面に固定していく、その集積の繰り返しを一つ一つの道標として、作品が「絵画として息づいていく」のです。
つきましては本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
作家名: | 井上健司 (Kenji Inoue) |
展覧会名: | Cairn |
会期: | 5月26日(土)より6月23日(土)まで |
営業時間: | 11時-19時 日・月・祝休廊 |
オープニング: | 5月26日(土)18時より |