PRESS RELEASE

Kodama Gallery | Tennoz

虚実

       

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ご案内

関係各位

拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊では9月3日(土)より10月8日(土)まで、貴志真生也「虚実」を下記の通り開催する運びとなりました。是非ご高覧下さい。

記 :

    展覧会名:

    虚実

    出展作家:

    貴志真生也

    会 期:

    9月3日(土)より10月8日(土)まで

    営業時間:

    11時-18時 日・月・祝休廊

    オープニング:

貴志真生也「虚実」に寄せて

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 以前、貴志の作品についてこんなことを書いた。

 “貴志真生也もまた、垂木や養生テープ、石膏といった素材をそのままに用いるが、それは表現主義的な作者の生々しい心情を伝達するメディウムとしてではなく、デオドラントされ、清潔感をもったままのそっけない情感を伝える。そのそっけなさの一方でしかし巨大なインスタレーションは、彫刻性が成立するかしないかの最低限度を確かめているようでもある。”
 “貴志は、本展示では、インスタレーションに電光掲示板を持ち込み、各作品の解説を表示させている。しかしながら、その解説はこれまでの作品同様にそっけない、即物的な作法が共通している。映像作品では、動物のフィギュアや人物の顔写真を用いたゲームらしきやりとりが、画面を左右に反復する円とともに示される。そこに立ち現れる「ルールらしき振る舞い」は、鑑賞者にそのゲームのルールを解読させようとするのではなく、反復するリズムも手伝って、ただ「ルールらしきもの」を「鑑賞」させようとする。その磁場は、貴志の造形作品と共通するものだ。”

 貴志は、ホームセンターで手に入るような部材を用いる。ホームセンターというのは、私たちが普段通うような、通常の商空間と少し空気が違っている。そこに置かれているのは、間違いなく商品であるが、「商品になる前の商品」のようなものが多い。それは、現代の商品が、グラフィックデザイナーやパッケージデザイナーの手を通じて、視認しやすく、受け入れやすく、愛着をもちやすい造形へと収斂しきってしまっただけなのだが、そのような「現代の商品」と比べると、木材やホース、様々なプラスティックでできた部材は、まだ物が商品と化す、その途中の状態に見える。いわば、商品以前のメディウムが露出している空間。それが、ホームセンターのような空間だと言える。
 現代美術の作家がしばしばこの「ホームセンター的な質感」を好むのは、そのように意味の過剰さ、味付けの濃さを嫌ってのことだろう。筆者は以前それを「デオドラント」と形容したが、このような素材を好む性質は(というか、このような素材を使うことで醸し出される「現代美術っぽさ」は)、今日においてなおも変わらずに続いているようにも思える。

 だが、そのような視点は――貴志作品を読み取る時にはお決まりの視点、となっていそうだが――、わりとどうでも良いことになってきているのかもしれない。というか、貴志の今回の作品プランは、「小学生が考えた作品」と言われた方が、なんだか納得が行きそうなものだ。しかしそれは、「仕上がりがまるで小学生の作品のよう」であることを意味しない。
 「道具に習熟する」ということは、様々なあり方をしている。それは、「達者になる」とか、「仕上がりが美しくできるようになる」ということもあるだろう(それはたとえば工芸家にとっては、必須の条件だ)。しかし、「この世に未だ現れていない情感をいかに表出せしめるか」ということを、日々道具に通じることによって達成しようとするのが、芸術家だ。なおかつ、芸術家にとってのインスピレーションというものは、普通に他人が聞いても、「それは果たして芸術的な情感なのだろうか?」と思ってしまうようなものだったりする(だからこそ、新しく世に出す必然性がある)。
 それ故に、作家がもつ関心がストレートに作品に現れるときに、それが「小学生の発想」とそんなに変わらないように見えてくるということが起きるだろう。
 そして芸術は常に、鑑賞者に次のような態度決定の二重性をぶつけてくる。「小学生の作品のようだと笑いながら見るべきなのか」「慎ましやかに、矯めつ眇めつ作者の意図を探るべきなのか」。それはおそらくどちらも正しい。同時代人である作家のどこまでが共感でき、どこからは共感できないのか。自分の解釈に引き込むべきか、作家の言葉に耳を傾けるべきか。その線引きは個別の鑑賞者にしかなしえない。

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