Kodama Gallery | Tennoz
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ご案内
関係各位
拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊では4月17日(土)より5月29日(土)まで、ignore your perspective 57「すんだの、しるしのダンス」を下記の通り開催する運びとなりました。是非ご高覧下さい。
展覧会名:
すんだの、しるしのダンス
出展作家:
木下理子 / 林 玖
会 期:
2021年4月17日 〜 5月29日
営業時間:
11時-18時 / 金曜日のみ11時-20時 日・月・祝休廊
オープニング:
ignore your perspective 57「すんだの、しるしのダンス」によせて
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「線引きする」という言葉には、「区別をつける」という意味がある。本来的には連続的な段階が存在しているこの世界に対して反応を返す我々にとって、「線引き」は、それを意識して行うはるか手前の段階でさえ発生している。そう、「我々」と呼ぶことすらままならない「目」という一つの器官や、特定の脳領域、あるいは細胞のレベルでさえ、「一定の閾値を超えると反応する」という機構を備えている。そこにはやはり「一定の閾値で線引きする」という断続が存在しているのだ。加えて、その断続的な視細胞の情報を統合し、再び連続的な色彩の変化からなる「像」を作り出した上で、人はその「像」から個別の物体を、輪郭を、また線引きして認識している。この連続と断続の繰り返しの処理によってはじめて、人間は物事を認知することができる。
このプロセスにとって、明快な形態や現実に引かれた線は快い。連続的な変化の中から線引きをする処理を経ずに、現実の方から「わかりやすい」答えを認知に先んじて示してくれるからだ。なにかを「記号」として受け取る時、それが記号として成り立つ条件には、この「わかりやすさ」――形態の明確さ、そして判別可能性の高さ――が存在している。
芸術には、世界を再構築してみせようとする方向性もあるが、人間がひょいひょいと引く線は軽やかで甘い。それゆえにそのささやかさや愛嬌は、ともすれば軽んじられもするだろう。しかし線が持つ認知に対する「わかりやすさ」は、単に人間の認知機構を甘やかすだけでなく、巧妙に用いれば、人間の認知そのものへの問いを突きつけうるポテンシャルをもつ。
彫刻と着彩の関係は難しい。それは、色彩次第でそのものが持つ形態さえもがあまりにも異なって見えてくるからだ(この要素がなければ、人間は化粧をしたりはしないだろう)。形態のうえに線を引こうものなら、そこには違った形態さえ見えてくる。あるいは、ときに内部が詰まっているはずの木材をどこか「透明」にさえ感じさせるかもしれない。これは、線のもつ力だ。
フォトグラムの本質は、その画面が実は「表面」であったことが明らかになる瞬間にあるだろう。遮光によって現れた線や像は、一見画面に直接に現れているように映る。しかし、その影から、フォトグラムと遮光していた物体との間にかすかな距離を認めるとき、物体と表面との関係性が突然に「見えてくる」のだ。記号化されていたと思っていた線に、明快さと異なる情報が含まれていたことが明らかになる瞬間が、鑑賞におけるひとつの喜びの瞬間だろう。
重厚とは程遠い、ささやかさを湛える作品であろうとも、それが批評的な存在であれば、連続と断続のプロセスに楔を、あるいは一石を投じてくる。それによって波立つ波紋の形こそが、人間の認知の外形をまた浮かび上がらせてくれるのだ。