Kodama Gallery | Tennoz
For immediate release
ご案内
関係各位
拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊では1月23日(土)より2月27日(土)まで、ignore your perspective 56「Gift of Words」を下記の通り開催する運びとなりました。是非ご高覧下さい。
展覧会名:
ignore your perspective 56「Gift of Words」
出展作家:
糸川ゆりえ / 清原 啓 / 野島健一
会 期:
1月23日(土)より2月27日(土)まで
営業時間:
11時-18時 / 金曜日のみ11時-20時 日・月・祝休廊
オープニング:
ignore your perspective 57「すんだの、しるしのダンス」によせて
gnck
ヒトとそれ以外の動物とを区別するものとして、「道具の使用」「二足歩行」と並んで、「言葉や概念の獲得」は筆頭に挙げられる事柄だろう。しかし、明確な発音の構造をもっているのが人間だけだとしても、何らかの音声でのコミュニケーションを取る生き物は、鳥や蝙蝠、犬やクジラなど数多くいるし、彼ら動物とて「獲物」と「外敵」、「同類」の区別や、優れた個体とそうでない個体を見分けた求愛などいくらでもやっているところを見れば、「概念」を獲得していないなどということは無いことも分かる。ただし彼らは、ここにいない個体の噂話をすることも無ければ、自らの祖先の来歴について語ることは無いし、この世が存在する事の意味を問うこともない。そう「概念」と「物語」はまた、少し別の事柄のように思われるのだ。
ところでここで、「動物にとっての物語とはどんなことだろうか?」と問われれば、人は勝手に「想像をはじめてしまう」。これこそがまさに「物語」の(あるいは「文学性」と言ってもいいのかも知れない)強烈な力に思われるし、芸術性の一つの源泉に感じられる。
物語が「駆動」している時、目や感覚はその主導権を奪われ、物語に従属している。だからこそ、近代絵画が純粋性を追求する過程において、一度文学性は退けられた。画中に人物がおり、その誰それが何かをしているという状況を説明する絵画は、文学という別のジャンルへの従属と捉えられたのだ。ゆえに今日において、「画中で物語を扱う」ということを「田舎で生き延びている作法」のように見る者もあろうが、一方で人は、あらゆる事柄を結びつけ、物語を積極的に紡ぎ出そうとする性質をもつ。現代美術においては、配置された物から、鑑賞者が自ら「物語らしきもの」——ナラティブと呼んでみる人もいるが――を紡ぎ出すように仕掛けるなど、物語を「再導入」する作法も確立されているように見えるし、インスタレーションという形式においては、そのような動機付けによって、「ただ物が配置された状態」を「作品経験」へと変貌させているようにも見える。
手放された「物語」が再び導入されることは、果たして堕落や退廃なのだろうか。近代芸術の根底にある反省性を鑑みれば、物語に没入する経験を反省する契機があれば、それは十分に近代芸術の条件を備えているように思われる。その条件があれば、物語――あるいは文学性を扱うことができるのであれば、芸術の可能性はより拡大するだろう。
たとえば、文学性を通過することによってしか、たどり着けない質感があるとすれば。あるいは、確定されたかのようにも見える歴史を問い返す契機として用いることができるとすれば。はたまた、現実を対象に描写することの意味を捉えなおすために。
我々が物語から離れ難い以上は、物語の単なる否認は新たな盲点を作り出して終わるだろう。時に文学性だけが、目の前にあるものを通過して「この現実」にたどり着かせてくれる。