Kodama Gallery | Tennoz
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ご案内
関係各位
拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊|天王洲では7月13日(土)より8月10日(土)まで、ignore your perspective 49「紙より薄いが、イメージより厚い。」を下記の通り開催する運びとなりました。本展は、京都で発足した”可変的アーティストスタジオ”「Terrain」を構成する、 木村翔馬、澤あも愛紅、西原彩香(いずれも初紹介)によるグループショーとなります。
絵画の在り方を問うに、それまで存在しなかった概念やメディアの台頭によって半ば強制的に絵画の存在意義が変わることが歴史上度々起こります。代表的な事例の一つは写真の登場でしょう。より以前から知られていたカメラ・オブスクラに始まり、19世紀のダゲレオタイプ(銀板写真)の登場によって決定的となった、「写実」における「絵画の死」はそれまで必要とされてきた絵画の在り方を一変させ、数多くの画家に筆を折らせることとなりました。その後、絵画を「網膜的」であると糾弾したデュシャンの登場によって、また、映像の発達によって、コンセプチュアルアートが作品の実体すら形骸化したことによって、幾度となく「絵画の死」は繰り返されてきました。印象派にしても抽象表現主義にしても、絵画に限らずおよそ重要な美術のムーブメントは旧態に対する反動として隆盛し、そして更なる反動においてまた新たな「死」を迎える、そのうねりの中で必要性に駆られて生み出されてきたものです。
木村、澤、西原の三名は、メディアが圧倒的な速度で進化し始めた時代に生まれ育った世代ならではの感性とその自覚を同世代の誰よりも明確に持ち、彼ら以前の絵画との分水嶺に立つ先駆となる絵画を試みていることは明らかです。幼少期より、アニメや漫画は元より、3DCGや、オンラインゲーム、遊びや生活の中で触れるものがヴァーチャルな視覚体験に満ちている世代、そして指先一つからありとあらゆる情報へのアクセス、コミュニケーションがボーダレスに実現できる世界に生まれた世代です。彼らにとってのリアリティは何かといえば、物理的な事物との接触や人と対面し会話することと同等あるいはそれ以上に、ネットワーク上でのコミュニケーションや仮想的な世界で発生する「現実感」を共有することでも緊密な人間関係が形成され得る、というリアリティです。そこではかつて物珍しさで取り沙汰されたテクノロジーそのものはすでに主題とはなりえず、当たり前のツールとして扱われます。
「身体性」という言葉は三名のコンセプトにおいても頻出しますが、美術制作の現場において「身体性」は常に作家と作品との直接的な問題として現れてきます。描く・造る行為は身体の運動であり、見る・触れるという知覚はイメージと身体の直接的接触です。常に身体を介して作品と接するということは、作品を制作する作家にとっては揺るぎのない事象です。しかし、VRやそれに類する仮想的な条件下においてはそれが揺らぎます。「身体」の帰属が曖昧になり、時にVRのような仮想的な空間における感覚の方が、実際の生身のそれを上回る、それが彼らの存在の一つの軸となっています。テクノロジーの発達と浸透によって、誰でもが、気軽に、即応性を持って、表現したいことを発信できてしまう、そうした仮想性と現実がシームレスに接続することがもはや「当たり前」=リアルへと変化した世界において、そのメインプレーヤーたる彼らが敢えて美術(主として絵画)という表現手段を選ぶ意味を自らに問うのです。
「紙より薄いが、イメージより厚い。」 (木村翔馬 澤あも愛紅 西原彩香)
その表象は、日々の身体拡張の上にあります。
デジタルツールやメディアによる身体拡張は、日常的なものとなり、その機能と技術の更新毎に身体化も進行します。
身体のあり方は、時代の移り変わりに合わせ、社会との接し方を更新させます。
3人はその中で筆を握り、絵の具を扱います。
仮想的な事物は、当たり前に定着し、そのリアリティが現実を上回ってしまう一方で、行為はどうしようもなく現実の空間に帰結します。
現実と同時並行的に存在する、イメージ・バーチャルの空間と身体の問題をどう絵画として扱うかを考えているのです。
木村翔馬 (1996年生まれ)
「絵画とVR」、安直なテクノロジーの導入か、との誤解を生むかもしれませんが、木村の考えはむしろ「絵画」の根源を問うものです。VRの仮想現実空間は現時点において唯一現実空間にある物理法則一切を無視できる空間です。無重量、無重力の茫漠としたフィールドにおいて、絵画の既存のフォーマットは意義を失います。木村は、そもそも絵画が四角である必要性や、構図の良し悪しについて、それらは重力という条件下においては壁面に飾られる必要があり、それに最も「相応しい」形態が良しとされているだけだ、と断じています。ではVRの世界における絵画のありようとは。無限の可塑性を持った空間、そもそも基準となる地平すらもなく、まして絵画の向きを縛る重力などないものとして振る舞えるのです。必然的に構図はその多元的展開に合わせて「相応さ」を変容させ、空間の中のいかなる座標にも配置できてしまう以上キャンバスは四角いフレームを全く必要としません。おそらく、木村の最もの関心事はVRそのものではなく、絵画を自らのリアリティに沿った形に再解釈することであると思われます。いわゆる絵画における「身体性」や「物質性」という点から捉えても、木村の作品は常にその前提として与えられた制限を振り払うような態度を続けています。絵画を描く、ということは即ち身体の運動に他ならないわけですが、VRの仮想空間においては肉体を持っていくことはできないので、描く行為における「身体性」から肉体を切り離すことが可能になります。肉体から自立した「身体性」は仮想空間の可塑性に従って可変となり、それに呼応して知覚も自由に現実空間でのあらゆる制約を超えていきます。画材や支持体のメディウムとしての「物質性」によって、絵画はイメージを具体化してきたわけですが、VRの中ではそもそも「物質」が存在せず、ストロークは制作者の所作の痕跡でしかなく、支持体は仮想空間そのものであるため、これまで絵画の絵画らしさを支えていたはずの「身体性」も「物質性」も宙空に放逐されて機能不全を起こしています。仮想空間において絵を描く木村の試みは、木村のような世代の持つ仮想世界に対するリアリティ:「身体性」の拡張、と捉え直した上での絵画であると換言できます。それを経験した後の、on Canvasの作品とはいかなるものか、木村はVR上とキャンバス上の双方の絵画を差別なく扱うその比較をもって、絵画の存在意義を改めようとしています。
澤あも愛紅 (1993年生まれ)
三次元である現実空間においてさらにそれを上回る高次元的感覚を捉えて作品に落とし込む「4次元的空間の存在」をテーマとした制作をしています。澤の「4次元」は物理学的な意味でのいわゆる時間を一つの次元として捉えた四次元の意ではなく、時間に限らず、三次元的な現実を凌駕すること、それを指しています。「4次元的」シチュエーションに遭遇すると、スマホの写真機能を使って記録する、ということを日常的に行っています。そして、その写真をさらに写真加工アプリを使って、澤の感覚における「4次元的」イメージへと近づけていきます。そうして加工された「4次元的」イメージをキャンバスに描き出していきます。現時点では絵画の形をとることが多く、今回紹介する三名の中では最もオーソドックスな絵画のフォーマットによって提示されていると言えますが、しかし、粛々と壁面に飾られているわけではありません。ひらひらと翻ってキャンバスの裏側を見せていたり、壁面に対して歪みながら浮きだすように掲示されていたり、自立するための支持構造であると同時に多面的な絵画となっている、というような、いわゆる平面かつ矩形の中でのイリュージョンを放棄して、立体かつ空間の中においてイリュージョン的現象を顕在化させているように思えます。イメージそのものはキュビスムやシュールとも接続しそうに思えますが、澤の作品においてはそれが単に平面上にとどまらず、一段階高次にある現象(絵画が二次元であるならば、三次元的な現象)を、より低次元の枠内へ無理やり翻訳したような感覚が常に見られます。澤の多視点的構造の作品は、例えば立体映像を周囲からぐるりと見るように、絵画の正面性をずらします。作品と正対する必然性を否定することで瞬間瞬間にイメージが変遷していく映像的とも言える絵画体験がそこにあります。澤の作品を前にすると、まるで絵画が平面である必要性など端から存在しなかったかのようです。
西原彩香 (1992年生まれ)
「軽さ」をテーマに、絵画を中心とした制作を続けています。重量、感触、程度、感情、評価、態度、「軽さ」にも様々ありますが、西原のそれはおそらく全てにおいてが「軽い」のです。情報化社会の弊害か恩恵か、気軽にさまざまな情報へアクセスでき、その速さと手軽さを享受している現在において、西原の作品はその今日性に呼応しているといえばそうなのでしょう。しかし、より厳密には西原のリアリティの問題であります。西原は「本物にわざわざアクセスしなくてはいけないことの違和感」と表現していましたが、それは、例えば有名な建築物について知るなら実際に見に行った方が良いだろうことは分かりつつ、情報自体はネットにも本にも十分にあり、それを介して仮想的に体験することに対してそれほどの違和感はないが、むしろ実物を見にいかねばならないということの「重さ」に違和感を覚えてしまう、といような感性です。それならば、実物は絶対的な真であるという大前提を放棄して、二次資料、三次表現と薄く変容した「軽さ」の中で完結することのほうが、むしろ自分のリアリティと言えるのではないか、という反転が起こります。その感性を絵画に向ければ、必然的に絵画にも「軽さ」を求めることとなります。旧来の絵画はやはり西原にとっては、その歴史も意味も存在も重く、そして圧倒的に遅いメディアであります。絵具の代わりに、カラー風船やプラスティック素材などのチープな汎用品を使用したり、キャンバスの代わりにビニール素材を用いたり、フィギュアの断片を元ネタとして抽象的な色面やストロークのふりをしてみたり、素材の面からも内容の面からも「軽さ」の追求が見られます。引用、代用、複製、模倣、それらは旧来の絵画には忌避され、ポップアートやネオジオ、シミュレーショニズムのアーティストたちはかつてそれをもって旧態から脱脚しようとしたのです。西原はそれを、情報の「軽さ」を是とする今の世界における絵画の目指すべきあり方が「軽さ」にあるのかを問う主旨において軽妙に継承します。
今展覧会は、少なからず感性を共有をする三名の独立した作家のグループショーでありつつも、独立性と相互干渉が複合的に企図され、展示構成全体として新たな一つの時代性の嚆矢となることを目論みます。つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
展覧会名:
イグノア・ユア・パースペクティブ49「紙より薄いが、イメージより厚い。」
出展作家:
木村翔馬、澤あも愛紅、西原彩香
会 期:
7月13日(土)より8月10日(土)まで
営業時間:
11時〜18時 / 金曜日のみ11時〜20時 日・月・祝休廊
オープニング:
7月13日(土)午後6時より
トークイベント:
7月27日(土)午後5時より午後7時 (VR実演あり) 予約不要
ゲスト:きりとりめでる(美術評論) 若山満大(アーツ前橋学芸員)
<展覧会関連企画:トークイベント>
きりとりめでる(美術評論) x 若山満大(アーツ前橋学芸員) x Terrain(木村翔馬、澤あも愛紅、西原彩香)
2019年7月7日(土) 17:00 – 19:00 会場:児玉画廊|天王洲
入場無料・予約不要
出展アーティスト(木村翔馬)によるVR作品の実演も実施致します。