拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
児玉画廊(京都)では、9月10日より10月15日まで和田真由子個展「ドローイングの絵」を下記の通り開催する運びとなりました。2009年京都市立芸術大学在籍中に開催したKodama Gallery Projectにおける初個展「ヨットの習作」を皮切りに、2010年にはignore your perspective 10 "Is next phase coming?" (児玉画廊, 京都)、続いて2011年にはignore your perspective 11 (児玉画廊|東京)、G-Tokyo 2011 (森アーツセンター)、「As long As Rainbow Lasts」 (SOKA Art Center, Taipei)、「アートアワードトーキョー丸の内2011」(行幸地下ギャラリー)と、断続的に作品発表の機会を得てきました。今回は児玉画廊の2つのスペースを駆使した大規模な構成で新作を発表致します。
和田の作品は、大別して2つのアプローチから制作されています。「立体としての平面」そして「平面としての立体」。「平面」と「立体」この両者は本来美術の形式的には二次元的な表現と三次元的な表現とで性質を異にするもので、一見作家の独善的なロジックのように思えます。しかしながら、和田が自らの作品制作の前提として据えている「イメージにボディを与える」という命題の前では、いずれも差異はなく、そしていずれも不完全であり、それ故に「平面」と「立体」は両立し補い合うという見解に和田の独自性があります。では、一体何を和田は表現しようとしているのでしょうか。
「イメージにボディを与える」とは、例えば原石を切り出して磨き、カットを施すプロセスを経て美しい宝石が出来上がるように、頭に浮かんだイメージを作品にするために、美術の形式を当てはめて具現化するというプロセスを経るという行為に他なりません。ただし、和田にとっては「ボディ」が「平面」であっても「立体」であっても未だ不十分で、それ故に両者に跨がった性質のものを新たに作り出さねばならなかった、ということになります。そこで、まず手始めに分かり易い例として建物を平面上で構築する、という手段を試みます。平面上において、立体的な構造をキープしたまま建物を描くことができれば、それは立体でありなおかつ平面である、ということになります。その際、最も重要となるのがレイヤーの概念です。三次元的に立ち上げることが不可能な状況下で、立体的構造を生み出さねばならない、それを打破するための平面的な多層構造=レイヤーです。レンガ造りの建物を基礎や床から壁を立ち上げ、天井を貼る、という工程そのままに、一つ一つの構造面を下から上へ、奥から手前へと重ねていきます。具体的な手順としては、一つの壁を描く(=建てる)にあたり、マスキングテープで一個一個のレンガの輪郭を形成しておいて、その内側を透明のメディウムで塗っていきます。レンガらしく厚みを出すために何度か塗り重ねて、乾燥させてマスキングテープを剥がすと一つの壁面が出来上がります。次なる壁面を作るためにはその上に重ねるようにまたマスキングテープを貼り、メディウムを塗る行為を繰り返していきます。そうして建物の構造すべてが透過した状態で完成します。遠近法や錯視によって誤摩化されたのではなく、透明メディウムが前後に重なっている様子がそのまま立体構造のそれと一致することを理解した瞬間、それが絵画でありながらも建築物=「立体としての平面」であるとする和田の弁を納得せざるを得ません。逆もまた然りで、「平面としての立体」とは、立体的特徴を持ちながらも、平面的性格を持つ、ということで、例えば「つばめ」のイメージを素描するような感覚で、ビニールやベニヤ板をそれらしい形に組み合わせた立体的な造形物を指して、和田がそれをドローイング或はペインティングのような「平面」である、と説くのを聞いたとしても、それは既に容易に理解されることでしょう。
また、「イメージにボディを与える」という和田の命題についてより理解を深めるために、イメージと形式の関係性についても考察を進める必要があります。作品を制作するにあたり、イメージに「立体としての平面」なり「平面としての立体」なりの形式を与えて具現化するという前述の関係性に加え、その逆相、まず形式ありきでそれに即したイメージを選ぶという関係性があります。つまり、これは和田の作品に限ったことではありますが、イメージを作品化するために、パネルやキャンバスのような平面的な支持体の上に立体的な構造を見せる、或は、立体的な造形の中に平面的性質を与えるという図式が成立するということは、逆に、作品を成立させているそれらの形式をよりはっきりと見せたいがためにイメージを作為的に用いるという図式もまた成立します。分かり易く言えば、目的と手段が倒置してしまって、構造を見せるという手段が主たる目的となり、イメージはそれを効果的に見せるための要素でしかなくなるということを意味します。それら両方向からなるそれぞれの作品は、お互いに相似型を成しつつも全く性格の異なるアンチテーゼとして今回の個展の両極を担っています。ただ、「立体としての平面」であるという「構造を見せること」が目的となるならば、その場合、例えば「建物である」ように見えれば良いのであって、イメージに対する忠実な整合性、つまり実際の建造物と同じ手順に従わねばならないという必要性は減じ、むしろある程度の手心を加えて演出する、という余地が生じてきます。そうすると、作品はより本来の絵画的性質を強く帯びるようになります。
今展でもその傾向は顕著ですが、以前は木製パネルが主な支持体であったのが、最新作では透明メディウムを裏表に塗った透明ビニールをキャンバスのようにフレームに張った物が主体になっていています。レイヤーによって構造を見せる、という手法に、支持体そのものが更にレイヤー化し、表面からも裏側からも加筆することが可能になったことで、より重層性を演出し立体的な構造を強調する効果を生んでいます。よく遠近法等を指して絵画のイリュージョンと言うように、和田の場合、レイヤーによって構造を強調し、演出することが、「イメージにボディを与える」ように見せるためのイリュージョンであると言えます。
「ドローイングの絵」という今回のタイトルは、一見意味が成立していないように思えて解釈に苦しみますが、これまでの理解を踏まえて改めて咀嚼すると、和田のそうした独自の理念を端的に表しているのだと言えます。「ドローイング」とはイメージが立ち上がる原泉、即ち作品へと至る前の「発想」、そして「絵」とは既に作品としての形式を与えられた状態を意味します。最も重要なことは和田にとって「平面」だから「絵」であるとか、「立体」だから「彫刻」である、という旧態依然とした認識は何の意味もなく、つまりイメージを「平面」や「立体」の形を借りて作品化することが即ち「絵」になるということで、「ドローイング」を元に「絵」を完成させるというような関係性を一旦破棄し、「発想」と作品の在り方そのものを再構築することにあります。今回の個展においては、まさに「イメージにボディを与える」という一つの命題に対して、いくつもの実験と、習作を重ねてきたその道程を集約することで、体系的に和田なりの「絵」の様式を導き出そうとしているように思えます。
つきましては本状をご覧の上、ご高覧賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
2011年9月
児玉画廊 小林 健