拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
児玉画廊(京都)では1月14日より2月11日まで宮永亮「scales」を下記の通り開催する運びとなりました。
メインギャラリーでは、昨秋ギャラリーαM(東京)での個展で発表した映像インスタレーション「arc」のスクリーニングバージョン、ギャラリー2では最新作「scales」を展示致します。
宮永の映像作品は、コラージュの手法、特に実写映像の幾重にも渉るレイヤーによって画面が構成されている点に大きな特徴が見られます。宮永が一つの映像作品を製作するにあたっては、まず映像を撮りたいと思う場所へ赴き、その土地の風土に触れながら撮影した映像を膨大に保存しておくことから始まります。「特定の作品を作る為の映像素材群、という考え方をそもそも持っていない」と本人が述べるように、その時点では作品の何たるかは曖昧なままであり、束縛のない自由な欲求に委ねた撮影作業であると言えます。そうして蒐集した断片的な映像素材の中から必要な物を抽出し、緻密な編集作業と映像加工に長大な時間を掛けて臨み、最終的に数分間へと全てを凝縮していきます。絶対的に美しい自然の光景や、そこはかとない人の営みなどのリプロダクション。映像とは「現実の不完全な複製」であり、宮永はその不完全性を埋め合わせる手だてとして、レイヤーやコラージュを駆使します。「捉えたいと切望する事象を、自分の望む深度をもってその全てをカメラに収められない」というこのメディアの宿命的に不完全な点に、自分の表現を織り込む余地を見出します。
今回発表される2作品においてもそれは同様で、「scales」はスウェーデンの各地、「arc」では震災前・後の東北などの風景を含め、多数の映像素材を構成要素として重ね合わせています。ギャラリーαMではインスタレーションとして提示された「arc」ですが、今展では本来の映像作品として、ミニマルに凝縮したプレゼンテーションを行います。過去の映像インスタレーション「地の灯について」(2010)や映像作品「Wondjina」(2009)を通して試行し続けてきた映像のレイヤー構造について、一つの中間的解答を示すような作品となりました。東北や活動の拠点である京都近辺の映像や風景など、一連の映像それぞれには脈絡はなくとも、我々の思考が様々な情報を引き出しにして、回り道をしながらその映像の断片を認識し、関連付けられるように、時間軸に緩急を施し、光の強弱やベクトルの変換によって三次元を解体し、再構築するレイヤーの構造を追求した一つの結果をそこに見い出せます。また、付けられている音楽も、オリジナルの音を極度に伸縮することによって、緩やかな波形となって映像と空間に揺らぎを与え、大変重要な要素となっています。「地の灯について」が7つある映像素材同士を加算的に重ねていく、という一方向的な構成だとすると、「Wondjina」では全ての映像素材を徹底的にコントロールして、加減乗除を複雑に繰り返した末の結晶のような構成という両極端が見えてきます。それに対して「arc」では、まさに放物線が立体的に交錯していくような構成を感じさせます。「arc」というタイトルに暗示される様に、事象と事象を結ぶものは、直線なのか、弧なのか、そんな思惟を観客に促します。そして、最新作「scales」では、タイトルの通り、映像によって捉える事の出来る、さまざまな異なる尺度を並列させ重ね合わせています。時間、イメージの縮尺、被写体の背景にある歴史的背景や文化的側面など、単位では表せないものも含めた無限に存在する「scale」、それらを映像の中から抽出し、一度断片化して再構築することで、「scales」という作品のタイムラインの中で新たな尺度を与え直そうとしているように思えます。イメージが細分化され、レイヤーが複雑化されている為に、実写を使用していながら被写体の具象性は希薄化し、単純に光の美しさ、重なり合う波や町並みの輪郭が偶然織りなす造形美、それらに目を奪われている間に一時的にでも「scales」のシークエンスの一部として我々の意識までもが組み込まれてしまっているのではないかという気にさえなります。
つきましては本状をご覧のうえ、展覧会をご高覧、ご宣伝を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
2012年1月
児玉画廊 小林 健