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ignore your perspective 49

ignore your perspective 49「紙より薄いが、イメージより厚い。」トークイベント

登壇者:きりとりめでる x 若山満大 x TERRAIN (木村翔馬、澤あも愛紅、西原彩香)

日時:2019年7月27日 (17:00-19:00)
会場:児玉画廊|天王洲

 

司会進行・小林健(以下 小林):本日はご来場くださいまして誠にありがとうございます。これより、ignore your perspective 49「紙より薄いが、イメージより厚い。」展関連企画として、トークイベントを始めたいと思います。まずは作家から順に本日の登壇者をご紹介したいと思います。
まず木村翔馬さんです。

木村翔馬(以下 木村): 木村翔馬と言います。まず、今回出している作品ですが、VR作品(「pon-poko 合戦」)は、西原と合作で作っています。正面のキャラクターが左端にいる作品(「けん玉の神さま」)と小さいキャンバス作品2つ(「タヌキ」「けん玉」)、その間にドローイングノートが置いてあるんですが、それも僕の作品(「drawing note」)です。あと、こっちの作品(「けん玉の神さま (v)」)もそうですね。僕は、京都市立芸術大学というところに通っていて、TERRAINは三人とも...三人ともじゃないか...

西原彩香(以下 西原): まあ、ほぼほぼ?(笑) 話の途中で私が入っちゃうのもあれなんですけど、私は学部までが名古屋にいて3年前になりますねもう、から京都に行きました。

木村: そうですね。だから京都市立芸術大学大学院(以下:京芸)に通っています。で、一緒にシェアスタジオを今やっています。この三人の中では若干年齢に実はばらつきがあって僕が1996年生まれです。(澤1993年、西原1992年)

小林: はい、次が澤あも愛紅さんです。

澤あも愛紅(以下 澤): こんにちは。澤あも愛紅です。私の作品は皆さんから見て右の壁あたりに集まっているんですけど、壁からちょっと浮いている作品(「緑の花瓶」)とか、あとVRの右隣にある赤色の作品(「untitled」)も私の作品になります。あと、児玉画廊さんに入ってすぐ左側の机が置いてあるスペースには一部写真作品(「ソーセージ、ご飯、ゼリー」)も置いてあるのでまた後ほどご覧になって下さい。

木村: あと、そこの床置きの作品(「鳩壺」)もあるじゃん。今ちょっと危ないからどけちゃってますが…

西原: 壁からふぁっと出てる作品と、床置きの作品とあと児玉の向こうの椅子と机が置いてある場所に彼女が日々撮り貯めている写真が3枚飾ってあるということですね。

澤: はい。3枚セットの写真が1点飾ってあります。

小林: はい。最後、西原彩香さんですね。

西原: こんにちは、西原と申します。えと、私の作品は皆さんから見て右手と後ろにあるストライプの作品(「The light images.」シリーズ)になります。このシリーズは「軽さ」をテーマに作っている作品群になり、まあ過去作等もあるんですが、今回はこの作品(「The light images.」シリーズ)が私の作品です。あと、木村くんと一緒にやっていたVRの中身のCGの空間とそれと連動するように...、今はちょっと陰になって見えないかもしれないですが、紫の箱の中に入ったCGの上にセル画のイメージを重ねたアニメーション作品(「pon loop animation」)を展示しています。

小林: ありがとうございます。今回トークショーをするにあたって作家三名の方から希望がありまして、きりとりさんと若山さんのお二人をお呼びしております。作家さんたちの方からどうしてお二人をお呼びしたかったのか、その辺も含めてご紹介頂ければと思います。

西原: じゃあ簡単に私と木村くんから...えーと関係性として、お二人がまず近しい存在だったから(近しい関係性にあるからこそより議論が深まるのではないかと考えた)というところが一点あると思います。で、木村くんの個展が昨年...

木村: そうですね。先に、きりとりさんの紹介からしますね。きりとりさんは、実は同じ大学出身なんです。僕は油画専攻にいてきりとりさんが大学にいた時は、実は接点がないんですけど、そこから去年の11月に僕が個展をしたんですが、(その記録集を作るにあたって)きりとりさんにテキストを書いて頂きたくてお願いしてるんですよ。きりとりさんは本当は写真の専門なんですけど、で僕は絵画とVRをやっている。で絵画とVRをやっていて、それをうまく語れる人、ていうのをどうしても見つけたくて、できりとりさんは正直、直感ではないんですけど何か確信があってきりとりさんだったら絶対VRも絵画もまとめこんでメディアの話をしてくれるんじゃないかと思ってお願いしてテキストを書いてもらいました。

西原: その個展のトークの際に、若山さんに登壇して頂いて、というご縁があったのもまず一つ。もう一つが、私が愛知県にいたという紹介をさせて頂いたのですが…学部生の時の卒制を若山さんが見てくださっていて、そこで若山さんと初めてお会いしています。それでその次に、私がM1の時に、学校の総合芸術という部門があるんですが、そこの生徒さんたちが企画した展示に出品し、その展示を見に来て頂いたという縁が実はありました。で若山さんのご紹介なんですが…

若山満大(以下 若山): 若山と申します。アーツ前橋という美術館で学芸員をしております。三人の作品を学生の頃から知っているというご縁で今日は呼んで頂きました。今回は三人揃っての展覧会ということで、作品のことを改めて聞いていけたらなと思っております。

小林: きりとりさんからもお願いします。

きりとりめでる(以下きりとり):きりとりめでると申します。三人が学部の頃に同大学の院生でして、当時、学内で展示されていた作品を見ていました。わたしはデジタル写真論の研究を中心に展覧会企画をしています。現在、あらゆるメディア、メディウムが混合し、簡単にコンバージョンできる時代に、写真から考え直す、ゾンビフォーマリストのようなところがあります。「パンのパン」という同人誌も作っていて、3号はその写真における「ゾンビフォーマリスト」的なものを肯定的、根源的、現在的なものとして考え直すところがあります。そこに若山さんにも寄稿してもらっている。わたしから見たテレインの三人は、メディウムが混交する中で絵画から世界を考え直す人だと思っていまして。今この時代において、そういった絵画という形(フォーム)からものごとを考えようとしている人として、私や若山さんは呼ばれたのかなと思っています。

小林: ありがとうございます。今回の展覧会をするにあたって児玉画廊の方からは…ずっと、関西をベースにギャラリー運営していたところもありまして、今は東京にお店を持っていますけども…大阪、京都と関西圏のアーティストをずっとカバーしてきたところがあります。その中で、彼ら三人は、久々の京都発の面白い潮流なんじゃないか、という予感もありまして、それで今回の展覧会となりました。新しい世代のデジタルネイティブ、と呼ばれるような彼らだからこそ考える、絵画についてを改めて言葉に残して語ってもらえればな、という機会にしています。なので、その辺のところをこれから話してもらえればなと思っております。会の進行としては、若山さん、きりとりさんの方から各作家に投げ掛けて頂く形で進めていければと思っていますので…取り敢えずは、まずそれぞれの作家さんが自分がどういう作品を実際作っているのか、というところから話して行って頂ければと思います。

きりとり: 是非、どうやって作っているのか、というところをわかるような形で話して頂ければと思います。

 

若山: まずは西原さんの作品から。支持体はビニールキャンバスですか?

西原: そうですね。

若山: ビニールキャンバスの上に、何で描いているんですか?

西原: あれは、作品によって変わってくることもあるのですが、基本的にアクリル絵具絵を使っています。で、特に大作(「The light images. “confetti"」)、ぴょっと飛んでいる色の部分が見受けられると思うんですが、そうやって一部で油絵具を使用しています。あの部分はアクリル絵具では欲しい色味が無かった、自分が思う質感のものが無かったので油絵具絵を使っている、というちょっとおかしな絵になっています。

若山: 作品は何をテーマに?

西原: 「軽さ」をテーマに作った、インスタレーションの一部なんです、実は。

若山: 「軽さ」っていうのは西原さんにとってどういう概念なんですか?

西原: そうですね、一つはインスタレーションを作っていた、という話から入らせて頂きたいのですが、観客を「軽い状態」にしたいというところがまずスタート。それで、その「軽さ」っていうものが一体どういうものなのか、っていう話ですよね…。私は普段、物を見て描くってことから絵をスタートしていた。その反面、インターネットで検索したり、画像を見たりしてそれを見ながら絵を描くということもしていた。その、出来たものの差っていうモノに違和感をずっと感じていて、それはなんだろう、という事を突き詰めていって出てきた言葉の一つでもあります。実際の軽重だけではなくて…例えば、物事を軽く感じてしまうことであったりとかも。おもかる石というものがあるですけど、みなさんご存知ですか?京都にある、伏見稲荷神社等にあるんですが、見た目の重さで占いをするっていうものなんですよね。その石を持ってみて、軽いと思ったら願いが叶う、想像よりちょっと重たかったら願いが叶わないかもしれない、みたいな、占い方法の石があるんですけど…そういった見た目の問題にも触れている、まあ、ある種マジックワードみたいに使っちゃっているんですが…そういうところから出てきた言葉の一つです。

若山: 今回の連作の中では、同じようなモチーフが大きさを変えて登場していたりもしてますね。キャンバスの大きさも作品ごとに異なっています。

西原: そうですね、それはやはり今のイメージ?...今の”イメージ”っていう言い方はちょっと分かりにくいかもしれないんですけど…大きさも小ささも一緒のものだと思っている、その考え方がありまして、今回展示している作品だと全く同じイメージが反復するといったことは見受けられないんですが…よくやる作り方のプロセスに、同じイメージを2、3パターン、複数のパターンで作るんです。色や大きさを変えて、小さい絵と大きい絵を作ってみる。それを並べて見たりもして、「この2パターンのうち何が価値が違うんだろう、」と思いながら作っている、という作り方をしていたりもします。伝わりますかね…?

若山: ここには、作った後に比較したもの同士が隣り合って並んでいるんですか?

西原: 今回は選び取ったものが並んでいるので、一見では見受けられないかな…。また、さっきお伝えしたかと思うんですが、「軽さ」というものをテーマにしたインスタレーションを先に作っています。その過去作品と新作が並ぶことを今回は考えて作品を作る事、並べる事をしているので、そういった話は今回の展示からは見受けられないと思います。

木村: あ、あと…サイズの話は、元々デジタル絵の話をしていて、デジタルの絵、デジタル上、フォトショップなどで描いた絵って、そもそもサイズの概念ていうのが実は無いっていのがあって、その感覚のことも多分関係してた?

西原: そうですね、プロセスとして私は今、手元にあるスマートフォンで全部イメージを描いてるところはあります。スマートフォン上で主にドローイングをしています。これは作り方、アプリケーションの話になるんですが、一応キャンバスのサイズはあるんです。例えば2m x 150cmとか、あるんですけど全部均一になって液晶には登場してくるんですね。その中で絵を描いて、それを実際プロジェクターで投影して、さらにそこで、拡大・縮小など、サイズ感を決めて絵を描くということをしています。

若山: 描画のアプリケーションは何を使っているんですか?

西原: ibisPaint X (以下 ibisPaint)です。SAI(ペイントツールSAI)とかの文脈を踏んでいる、無料で使えるイラストレーションアプリになりますね。いわゆるpixivとかに絵をあげているようなコミュニケーションの中で、iPhoneやiPadで使うために使われるアプリケーションと思います。

若山: インターフェイスをスマホにして絵を描こうと思ったのはどういうところからですか?

西原: どこでも絵を描けるから。(笑)

若山: ああ、なるほど。どこでも絵が描けるから。(笑) 実際どこでも描いているんですか?

西原: ベッドの上で布団に入って描いている絵が多いですね。(笑)

若山: すごいですね。(笑)

きりとり:スマートフォンだとアスペクト比が決まっているじゃないですか。それに合わせてアプリケーション上のキャンバスの大きさを決定するなどしているのですか?

西原: まず最初にグラデーションのボーダーを作るんですよ。適当に。そこのアスペクト比に沿ってます。まず、グラデーションをサンプリングしてくることが多いです。その上から白のボーダーを乗せて、グラデーションのボーダーを作っています。その上から描画をする。なので、そのサンプリング先のグラデーション、画像の解像度によるっていうところが一番大きいです。

きりとり: 色の選び方に規則性はあるんですか?

西原: 色の選び方はサンプリングが多いです。InstagramとかTwitterとかの検索からひっぱってきたりすることが多かったりとか、あとアニメーションの背景とかから取ってきてます。

きりとり: 色が塗られていない部分という空間部分というのも、何らかのアニメーションの中の元があるのでしょうか?

西原: それ(サンプリングしたアニメーション、写真などの画像を指す。)を指で小さくして行ったりとか、くしゃくしゃにしたりしていった残りが今の余白になってたりしますね。

きりとり: アニメーションの選択の幅によって担保する批評性は変わると思うのですが、具体的にどのようなアニメだとかありますか?

西原: 今流行りの色を使おうと思っているので...(このシリーズに関しては)懐かしい感じの入れたい色で欲しいなと思っきたらその時のものを見るし...ていうところから色をピックアップしてきています。

きりとり: 懐かしいっていうことは自分にとって?

西原: 自分にとって。ん〜…まあある種、風潮として今やっぱりあると思うんですよ。懐古主義的な色味を使ってみるっていうファッション分野なのであるもの、あるところと似ているとは思うんですが、そういったところを俯瞰して見てたりして、まあそのソース元から引っ張ってきたりもしてます。

若山: 今回、その翔馬君の作品とコラボレーション(「pon-poko 合戦」)をしたことで、例えば自分の制作にどんなフィードバックがありましたか?あるいは、どんなことが切り落とされたのか。逆に西原さんからみて翔馬君の作品がどんなのに思えたかというのをちょっと聞かせてもらってもいいですか。

西原: そうですね。「合作しよう!」というところから作品は、実はスタートしてなかったりもしていて…なぜVRを二人のあり方にしたかっといえば、展示構成として何か繋がりがあるものが欲しかったということがあります。。で、フィードバックとして何があったかというと、自分はCGを全然使えてなかったというのが普通に事実として分かったのが面白かった。本当に、何だろう、おもちゃのように使っていて、自分がアニメーションの機能として欲しかった部分だけを使っていたという事がよく分かった。彼は、もうちょっと実質的に、ゲーム開発ソフトだというのを自覚しながら作っていて、やっぱりVRっていうものを事実やっているが故に、知識とかは豊富だし...、そういった面と(意識的に)切り離してVRで絵を描くということをやっているってのはあるんじゃないかな、ていうのはちょっと感じましたね。

きりとり: 木村さんの持っているVRのペインティングソフトってGoogleの何でしたっけ?

木村: Tilt Brush (チルトブラシ) っていうやつですね。

きりとり: Tilt Brushを使った後、ゲームエンジンのUnity (ユニティ)に入れるっていうことですよね?

木村: そうですね。

きりとり: Tilt BrushからUnityという、まだシームレスじゃないプラットフォーム間のデータの移管自体のバグりも扱っている木村さんと協働するにあたって、西原さんは「アニメーション」を入れ込んだ。西原さんの目算はどこにあったのでしょうか。というか、データ的に壊れた箇所とかがあったら、非常に気になります。

西原: ああ...バナナが壊れましたね、確か。

木村: バナナのアニメーションは結局残っているよ。僕も手探りで触っているから、どこでバグが起こるか分かんなくて、もっと本当は合体させたいというか、もっと本当はよく分かんないものを作りたいと思って色々混ぜていたんですけど、結構すぐ壊れて、何回かやり直ししていています。最終的には、西原のはアニメーションが残りつつ、僕の絵を入れつつ...、なんですけど。僕が気づいたことは西原のはいっぱい小さい作品がある中で、僕はTilt Brushで描いているから元々ソフトが全然別なんですけど、あの中にTilt Brushのものを急に入れるとそいつの存在感が凄すぎてバランスが取りづらい、みたいなことが起きました。全然データの作り方が違うし、Tilt Brushの場合はやっぱりデジタルといえど軽くなっていないものがある。なんかわざと「軽い」って単語を使っていたけど。Tilt Brushは、何しているかというとVR上でぐるって線とかを引いて、その筆致がリアルタイムで記録されている。ああやって立体的に見えているものの中でも、西原が特に「軽い」と思ったものをサンプリングしていたり、デジタルっぽいって思ったりとか、さっきの流行っている色みたいな選び方をした空間の中に人のリアルタイムの生々しい何かが入っている時に、なんかバランスが崩れるっていうのはめっちゃあります。

きりとり: VRを見てると、西原さんのアニメーションの存在をあまり感じませんでした。むしろ、「あっ、アニメーション、入り込んでいたんだ、そうだったんだ」という、行為と結果の落差を扱おうとしていたのかな、と思ったりしました。でも実際はそうでもなかったの、かな。

西原: そうですね。私はむしろオブジェクトとして捉えて絵として捉えてなかったので、全体像の一個のものとして、VRの中にインスタレーションとして配置をしていたので、もはやデータとして一個の凄くフラットなものとして見ていました。(Tilt Brushで描いた絵に対しては)だからなんだろう、木村が言う以上に気持ち悪さだったりとか、その何だろう、違和感みたいなのは正直いまやっと気づかされたみたいなところはあって、ある種の慣れみたいなものもあるかとも思いますが。

木村: でも、西原のあの作品はデータの中で、プラスでセル画(を取り込むこと)で無理やり絵具を被せてるところが大事なんですよ。それが僕のTilt Brushの、西原的に言えば「重たい」要素の代わりになって「絵具イコール重たい」っていう、凄く物理的な絵具のレイヤーが3DCGのアニメーションの上に乗るっていう状態。

きりとり: あと作り方の部分で、アニメーション作品がどうやってどんなプロセスでできたのかを教えて頂けますか。

西原: やはりインスタレーションの一部として作っていて、その空間(CGのアニメーション部分)を元々遊びとして作っていたのが一番大きいんですけど、それがインスタレーションまで拡張していった。遊びの部分から説明しますと、私は元々実空間で既製品を集めてきてインスタレーションをするという制作方法をとっていたんですが、やはり不自由が多かった。置いてみたものの、そのもの大きさやスケールがイメージしていたものと合わなかったりだとか色が合わなかったりとかっていうことが起きていた。けれど、CGだったらシミュレーションを自由に使えるのでその中でやっていたという遊びがまずあった。まあ、そこからやっぱりCGだけでは気持ち悪かったという感覚、違和感があって。その理由としては、やはりCGには物質感がなかったという。で、今回VRで見せることにしたのもそうだし、セル画アニメーションという形にした。

きりとり: セル画アニメーションっていうことは、手で描いているんですか?

西原: 手で描いています。

きりとり: 手で描いたものを...

西原:…一枚一枚スキャンニングしてアニメーションしている。

きりとり: それを木村さんのVRの作品の中に今回は使っているということですね。

若山: 二人はアプリケーションを使って絵を描くっていうことをやってますけど、あもさん(澤)はそういうところを経由せずに書いているんですか?

澤: ...と、思われているかもしれませんが…実は、西原と同じくibisPaintを使っています。写真、作品を取り込んでそれをそのアプリ上で加工してからプロジェクターを当てて描いているので...

若山: じゃあプロセスとしては西原さんと全く一緒?

澤: そうですね。

西原: でも、全くではないと思います。澤の方は厳密にここって決めるんですけど私はもっと雑に...、

木村: え、違う違うよ、全然違う。(笑) あもさんのやつはデジタル絵じゃなくて写真。自分で撮った写真(実際の描きかけの作品を撮った写真も)をそのibisPaintで加工しているんだよね、多分。

澤: そうです。

木村: でもにっしー(西原)の場合は違うじゃん?

西原: 私はもう全部デジタル(絵)。

木村: そもそもだってネットから拾ってきた画像を...あっ、そっか、全部絵(というわけ)じゃないのか…

若山: 面白いなと思ったのは、彼女は自分の作品を形容するときに「4次元」っていう言葉を使っているところでした。たしかにそうかもなと思いました。あもさんの絵画は回り込んだり覗き込まないと全体が見れないんですよね。正中線を基準に、斜めに30度くらいに体をずらすっていうことを鑑賞者に強いる設計に、大体全部の作品がなっていている。同時に正面っていうのもあって。三点透視図法的に、正面から見るっていう意味で三次元なんだけれど、それにちゃんと鑑賞者も移動させるっていう設計されていることで、時間が導入されている。ああ確かに四次元だわって思って納得した部分があったんです。あもさんには三つのことを伺いたくて。ひとつは、ibisPaintを使う意図。もうひとつは、あもさんにとっての写真を加工をする必要性とは何か。3つ目は、これらと絵画を吊るすことの関わりについて。そのあたり、ちょっと教えて頂きたいです。

澤: 関わり...、

西原: 何故そのまま絵だけとして作品とせずに、壁から棒が出る形にして、その上に絵を乗せて引っ掛ける様にしたの?

若山: 普通ibisPaintで描いた作品を、こんなふうに引っ掛けようとは思わないじゃないですか?(笑) そういうところが、あもさんの中では並列化されている、ていうところが面白いと思ったんですけど…何でそんなことをしようと思ったのかな、みたいな?

澤: ibisPaintを使ったのは割と最近の事で、以前は、絵画を壁に掛かっている状態では無い見せ方で絵画作品を作っていたんです。例えば、キャンバスを半分に割って、そこに蝶番をつけて、半分に折れる様になっているような…折りたたみができる絵とか作っていました。写真のイメージをそのままキャンバスに移したり、写真そのものを折り曲げたり吊るした作品とかがあったけど、画面自体に何か足りないな…という感覚がずっとあって、ここ数年ぐらいからペイントツールだったりを使って、写真自体を加工するようになりました。

きりとり: あもさんは撮影した写真をibisPaintの中に取り込んだ時に角度補正など何か加工をされたりしているのですか?

澤: 角度の変更っていうのはあまりしたことはなくて、一部を切り取る、写真を複数枚用意して、レイヤーとして重ねる。それが大体、2層か3層かに分けてあって、その一番上の層を切り抜いているっていう加工が一番多いです。

きりとり: じゃあ例えば、この作品の(「壺」)、一番緑色の部分が実際には写真に撮る時に物質として一番手前にあって、その奥に水色の部分があって、更にその奥のピンクの部分っていうのも…また違う一枚の写真?

澤: そうですね。ピンクの写真の層と、青+緑の写真とを2枚を重ねて、それで手前の青+緑の部分を消しているんです。

西原: ネガポジが反転している?

澤: 反転しています。

きりとり: ネガポジが反転しているっていうのは、どういうことですか?

澤: 切り抜いたところは凹んでいるのではなくて、手前に出てきているていうのを考えながら切り抜いています。

きりとり:デジタル時代におけるペインティングの在り方として、フォトショップなどに代表されるデジタルブラシツールのシミュレーションを行うという方法があると思います。
個人的には、あもさんの作品には、コピースタンプツールがシミュレーションされているように見える。しかし、もう一度まとめると、シミュレーションではなくて、写真を切り取って、重ねて、ibisPaintで2層にあるものの片方、一番レイヤーの上の部分を消していったものをプロジェクターで投影し、描く。だとしたら、次に気になるのは、プロジェクターの存在です。プロジェクターって基本的には、常にスクリーンや主体の位置からくる像の歪みが生じていて、それを無視するために標準的に台形補正機能が装備されている。キャンバスの角度やたわみは、その台形補正の存在、レンズというものが常に抱え、無視しつづけるゆがみを再現しえるし、そういった台形補正のようなものの再演としてキャンバスに角度がついているのかなと思いました。キャンバス自体への角度のつけ方はどのように決定しているのですか?

澤: そこは考えたことがなくて、ただ…絵の裏側が見えたりだとか、側面が見えたりするために壁からの距離だったりとか思っているので、台形補正とかは特にあまり考えたことはなかったです。

きりとり: なるほど、プロジェクターとキャンバスの投影時の位置関係、状態はどうなっているんですか?

澤: 壁から0ミリの距離で...

一同:「0ミリ!?」 (笑)

きりとり: 壁に対して0ミリの距離で垂直にキャンバスが設置され、壁に備えつけられる様に、プロジェクターがなんらか適宜投影されているという感じなんですね。

澤: まあ、あまり私自身はあまりデジタルを使っているっていう感覚はあんまりなくて…なぜこれを使ってるかっていうと、絵具だと作品を作っている時に絵具を乗っけてからまた剥がしたりだとか、他の色を乗せたりとかできると思うんですけど...その絵具を乗せる感覚でこのアプリで消したりとか使っていて...なので、一番最初に白いキャンバスの上に投影した図と、実は3~4回は途中で投影する図が変わっていて、足りないところだったりとか、後で消したいところだったとかは何回か作り直していて。なので色味とかも途中で変更したりだとか、わりと自分の中で「変更しやすいもの」として、このアプリを使っている感じです。

若山: 三人がTERRAINっていう場所を立ち上げようと思ったきっかけは何だったんでしょうか?コレクティブを作ろうと思うと、例えば問題意識が近かったりとか、共通の話題や制作態度があったからとか、みたいなそういう色々な事情があるんじゃないかなと思います。そのあたり教えてください。

西原: 関係性が近いっていうのが事実としてあると思うんですが….今回の展示のタイトルになっている「紙より薄いが、イメージより厚い。」という言葉があるんですが、これ実は、元々は澤と私が初めて、「絵ってこういう感覚だよね、こういう感覚って面白いよね」というお互いの共通の感覚を認知した言語なんです。すっごく伝わりにくいと思うんですけど。まずそこからスタートしているんじゃないかな、と思っていていて。澤と私は同期で、同じゼミ生でした。だからお互いが近しい間柄で制作をしてきた仲、ていうのがまず一つあって。澤から「一個下の学年に面白い子いるんだよ」と教えてもらった人のうちの一人に木村くんの名前がたまたま挙がった。私は京芸に(大学院から)来て、人間関係や環境を知らなかったので澤が教えてくれた時に、(木村くんともう一、二人いたんですけど、)木村くんの名前が挙がったていうのが(TERRAINの)出来上がりとしてはまず最初なんじゃないか、と思います。そこから客観視して見てみると…みんな絵をやろうとしているけれど、ただ絵を描くのではなくで、外側からのアプローチが多い人達だなと言うところがある。澤なんか吊るしてるし、木村くんはキャンバスベロベロしているし。で私もなんかインスタレーションしてるしみたいな。でも、それでみんなすごい真剣に絵のこと考えてる。なのに、なんで外側からのアプローチをしている人たちが、この場と世代にこんなにも密集しているんだろうな…しかも、アプリケーションやメディアを…例えば、VR、Unityだったりとか、ibisPaintだったりとかを当たり前の様に平行して行き来して使っている。何かあるんだろうな、と思っていたのが一番最初です。でもこれは私からの視点なんで、彼らにも聞いてみてもいいのかな、と思いますけど…

木村:じゃあ、 TERRAINに関しては、まず西原さんがいて西原さんが木村とあもを選び取ったみたいな印象があって…。僕とあもさんの関係性は、京芸の先輩と後輩関係。僕から見た時のあもさんは、先輩なんですよね。西原さんも先輩ですが…。あもさんって、さっきもずっと話していたように、デジタルの加工を使っているのって割と最近なんですよ。で、僕がVRの作品とかを作る前からすごく物理的な操作で、なんか「4次元」っていうやつを目指していたんですよね。一方で西原さんと会った時は、僕はもうVRで絵を描いていたから、これは(西原は)、「あっデジタル的な人の絵の描き方だな」っていうのが直感としてあって…。で、いわれてみたらあもさんも「そうだ」っていうふうに思ったんですよね。この中、だったら僕が一番若いわけなんですけど…若い人から見た時に、上の年齢の方々が描いているものが実は…なんだろう...今ある評価のされかたじゃなくて、下の年齢の人たちのリアリティから見て、「ああ、これはデジタル的なものだよね」、みたいな発見の瞬間みたいなものがあって…。それは、西原さんに関しては、例えばキャンバスが多分必要ないかもしれない、みたいな言い方ができるかもしれない…他にも、絵具がそもそも宙に浮いていた方が良い、本当は西原さんの方がVRで描いた方が良いと思う瞬間があるんだけど、でもVRですらダメなんだろうな…みたいな感じすらあったり…。あもさんの場合は、僕がVRをやる前から、よく分からないけど絵を傾けるし、よく分からないけど物理的なレイヤーを使って、現実空間ですごくバーチャル的なもののシミュレーションをやり続けてたっていうのは面白いなって思います。だから共通点は、多分後から出てきた。後からというか、僕がVRやり始めて僕は気づきがあって、声かけられて気づいていると思います。

澤: 感覚と言うのも…私はあんまりこう喋るのが苦手なんですけど、最初に西原さんが言っていた通り、彼女は院生から一緒に入って、木村君は学年が違うのでちょっと距離がありつつ見てたんです。だけど、やってる方法とかはちょっとずつ違うけれど、感覚が一緒だなっていうのはずっと前から思ってて。それを言語化して、なんて言うのかは、ちょっと分かってなかったですけど…二人がよく喋っているのとかを見て、聞いて、目指しているところ?…なのかな、が一緒か私はわからないですけど、どこか共通してやっていること、考えていることがあるんじゃないかなというのは、ずっと思っています。

小林: 一応ギャラリーの方からいくつか。展覧会をやっていて今回のTERRAINの三人っていうのは、まず共通点として、出てきてる作品そのものは凄く従来型の…"on canvas"ですし、絵具も使っていますし、絵として受容できるものとして作っています。そうなんですが、そこに至るプロセスが、ibisPaintなり、VRなりという、紙とペンでゼロから生み出されてきたものとは、ニュアンスが違う部分が必ずあると思うんですよ。多分作品そのものから議論に入っていくよりも、作品が作られたプロセスに「デジタルなものがある必然性」(デジタルによって何かを介在するとかいうレベルではなくて)みたいな部分があって、それは実際の制作の当事者としての彼らの感覚から説明してもらうと凄く分かりやすいんだろうな、と思います。できればその辺のところを、それぞれの作家さんになぜこういう作品を、そういうプロセスによって作っているかという説明を、詳しく伺えればと思うんですけど…若山さん、きりとりさんの方から、ちょっとその辺りから突っ込んでいって頂ければと思います。

きりとり: 例えば、小林さんが書かれた、児玉画廊のプレスリリースでは「現在性への向き合いの強度の大きさ」から三人を評価しているという筋があったと思うんですね。今のメディア状況、とりわけ、あらゆる人たちが日常的に使うことができるアプリケーション、作る側も鑑賞者側も同じ土俵に立っているということへの自覚の強さ。それが三人の評価の一つの指標になっていますよね。ですから、制作プロセスにこそ面白さがある。
そこで三人に聞きたいのは、スクリーンの中で行われる状況とか、情報のやりとりだとかものの作られ方に密着しようと考えるならば、キャンバスに描く必要性は絶対ではないと思うんです。例えば、いわゆるポストインターネットアートは、何段階かに時代を区分できる概念だと思っていますが、基本的にはシーンとしては、インターネットの中にあるものを具現化、表出する、描いてみるという手法が一段階目にあると思います。その結果、2010年代における立体化する写真の動向と呼応したり、現在的な意味での絵画領域のゾンビフォーマリズムの担い手は基本的には、ポストインターネットアートの旗手と非常に重なっていると思っています。パーカー・イトー(1986-)、オキイシ・ケン(1978-)、サイモン・デニー(1982-)など。特に、オキイシ・ケンやHouxo Que(ホウコォ・キュウ | 1984-)は、キャンバスでは無くディスプレイに絵具を載せるという選択をしている。そのような先行の作品がある中で、今キャンバスなのかが気になっています。どういった批判意識を持っているからそれを行っているのか、みたいなことにフォーカスを当てて話をちょっとだけ聞きたいなと思います。

小林: 多分今回お話を聞きに来て頂いている方々も、きりとりさんと同じような疑問点を少なからず抱いていると思うんです。「わざわざキャンバスにする」っていうことが彼らの作品に実際起きているので、その理由なり、悩みなり色々あると思うので…それぞれの言葉で話して頂けたらと思います。

木村: 「なぜキャンバスなのか」っていうと、「なぜ絵画なのか」っていうのは結構全然意味が違う言葉だと僕は思っていて、だから2つ答えなきゃいけないなと思います。まず、なぜ絵画なのかっていうのは、単純に僕が絵が好きだからっていうのがあり、絵って何かものを見て描かないといけないとか、何かを示さないといけないとかそういうルールがあると思われがちなんですけど…何もなしでも描ける絵っていうのが存在しています。それは、色や構図と違って別に時代を問わず絵画的な価値観として実は存在していると思ってます。その絵画が好きだっていうのが一つある。だから、絵画には戻りたいし、絵画を更新することに意味があると思ってる。それが絵である理由です。僕が絵をやる理由。なぜVRで絵を描くのかという理由は、別の理由があるからまた違うんですけど…(笑)
では、もう一つの「なぜキャンバスなのか」は、僕はキャンバスで描いてるけど別にもう、キャンバスでなくてもいいんですよ。何が理想かと言われると、鑑賞者の頭の中に絵ができることが理想です。
「紙より薄いが、イメージより厚い。」の言葉を借りて…その状態というよりかは、もうイメージだけでも話は成立する時代がいつか来るはずだ、みたいなことは思っています。本来は作家が頭の中に考えているものを、彫刻だったり絵だったり、作品として変えていくわけですけど…でもその頭の中を、ある程度想像したものが見られれば、別にそれで問題ない。だから物質的なものに実は意味を見出していないかもしれない。その上で、もう一回なんでキャンバスなのかっていうと…。絵画史は絵画史として更新する必要があるとはすごく思っています。絵画の歴史を更新する意味っていうのは、一個のある事象として僕は捉えています。

きりとり: 生きている人間の営みの証を叩きつけるみたいな。

木村: …(笑) それって、どういうことですか?(笑)

きりとり: 絵画史の自分の周りにある行為というものが、そのVRにおける可能な行為というか、存在していて….、それは存在しているのに絵画という言語表現で、言語世界の中でも遠い出来事なのに、それを行われないということは良くないというか、それは絶えず更新しておきたい。そういう出来事みたなのものがある。

木村: どうなんですかね?やっぱり、その時代のリアリティにあった絵っていうのはいつでも存在していると思っていて…。例えば、西原さんが「絵具が重いとか軽い」っていう認識で見ていることだって、絵具が上手く扱えない世代っていうのは多分どこかに出てくる問題だと思うし…絵具って、特に油絵具はすごいベトベトしていますよね。油絵具はベトベトしてるんですけど、それに対して良いと思えない時代っていうのは絶対に来るから…。

西原: メディアの速さと、そもそも油絵具っていう遅さがもはや合って来なくて、絵具が乾く頃には世界が変わってしまったりもしている気もしている。という言い方にも置き換えられるんじゃないかな?とも思っております。ちょっと補足ですが。

若山: 美術館で一応学芸員をやっている身からすると、こういう議論を聞いてて「ああ、どうしよう」って思い詰めちゃうことがあるんですよね(笑)。もはや当然と言っていいくらい、作家は後の世に「残す」ということを前提に絵を描いていないわけですよ。取り敢えず、物理に従って、物体にしてるけれども本来別にそうじゃなくていい。頭の中でおよそ完結しているし、かろうじて現前さえすれば全然OKみたいな。だからビニールキャンバスに描かれていても問題ないわけですが、それは千年先にはおそらく残らない。どういう保存環境にしたところで。「頭の中で完結するような絵」っていう概念をあらためて意識したときに、「墓場としての美術館」っていうのも変わらなきゃいけないんだろうなと考えたりします。全部絵はクラウドに上げたほうが良いんだろうなとか(笑)。従来的なストレージじゃない方法で保存する仕方だったり、あらゆる作品を残すための新しい制度設計も、きっとこの先されて行くのだろうなとか。そんなことを考えたりしました。

木村: それも、もちろんなんですけど…。絵っていうのが状態とかイメージってものを扱うふうにやっているのはお世辞じゃなくて。絵画ってそもそもバーチャルリアリティとして生まれてきているものだし、描いているものが全てじゃなくて描いて想像していることが大事なんですよね。実際に描かれているものと見た時の印象にズレが生じていることが絵にとってすごく大事なことだから。そのズレの部分を取り扱いたい作品として使いたいと思っています。だからそこは多分変わっていない部分で、だからこそ絵画で表現できる、イメージとして表現できるもので…。でも…難しいですね…(笑)

西原: じゃあ次に、木村君と比較する話に私は立場としてなるかなと思っています。そこから、じゃあキャンバスに乗せる理由って?という話をしようかなと思うのですが…。私は木村君と違って、イメージを、頭にあるものを「直接見る」っていう状態がいずれやってくるからこそ絵画だ、と思って作っています。キャンバスに乗せる理由として、それがあります。結局、絵、絵画というものは、人が今、ここ、この場所に訪れて見るもので、見た時に身体・肉体をどうしても感じざるを得ない。スケールも、スマホでその液晶内の情報なり、画像を見る時って、目と手だけで見れるから、自分の体の移動とかも全然無い。だけど、大きい絵になると、体の移動や視点の移動っていうことが、どうしても発生してくる。結局、そこでも身体を感じざるを得ないっていうことを思っています。そこにキャンバスにする理由、っていうのが一つあります。あともう一つは、私は既製品を使ってインスタレーションしたり、アニメーション作ったり等、絵画、絵というものを解体して他のことも沢山やってきました。そうなると…何が起こるかというと、もう絵画の作家として見られない(笑)。だから、絵の体裁を取っている。めちゃくちゃ絵のことを考えてやっているのに、そもそも、その枠組みで見られなかったら困るから、というのは絶対にあります。

きりとり: 絵画の歴史を更新してきてる?

西原: どうしても若い作家が絵を描くとなったら、誰としても何かしらの更新は絶対に行われているとは思う。その自覚はあります。

きりとり: このあらゆるサイズに描かれた西原さんの作品は新聞紙の裏に描いても良いし、普通の紙の裏に描いても良いけれども、キャンバスに描くのは絵画の歴史に自分の行為をちゃんと表明する為にしている?

西原: ある種そこに則って、「フリ」をしているっていうのが正しいかもしれません。私も事実どこでも良いと思っている。イメージをそのまま壁に貼るっていう行為もしてみたことことは実はあって、ただその時に「いや、イメージのままだから物にしないとね」と言われた。あ、そういう文化があってしまうんだな、っていう事実は結構背負っていて...でもそれをいかに解体するかの前にやっぱり物として作ってみようっていうのは大きいです。

若山: 要はマーケティングなんだなって思ったりもしなくはない。誰に向けられているのかっていうことは明確ですよね。いわゆる絵画を見る人のために描かれているわけですよね、これって。別にデジ絵のコミュニティいっぱいあるけれど、そこじゃなくてギャラリーに来る人に向けて描かれている。そういうところは結構自覚的だったりする?

西原: 自覚的です。むしろそういう人たちにその感覚とはっていうのを問いかけたいというのは一つ軸としてあって、だからこそ普通のキャンバスではなく、ビニールキャンバスという既製品、ある種すごくチープなものを使っていたりすることはそういうことですね。

きりとり:ビニールキャンバスによるチープさの担保はもう少し進められるのではないかと個人的に思っています。ただ、西原さんが自分の作品は絵画作品であると分かりやすくするためにしている「フリ」があるとして、今回の展示ではビニールキャンバスを選択している。今のだけだと、既視感のあるもので終わってしまいかねない。何を西原さんの取り組みの身振りとして次に開示する必要があるかということに、西原さんは自覚的ですよね。だから、多分西原さんの個展がどこかで開催される時に、この作品の見え方が変わるのだろうなと思っています。

西原: そうですね、ここで完成の序章、いや二章目ぐらいの感じはします。

澤: 私は「4次元」をコンセプトに作品を作っているんですけれども、「4次元」っていうのは別に絵画だけじゃなくても良いと思っていて、今回出してるように写真だったりとか、ダンスだったりとか音楽だったりとか他のものでも現わせると考えています。

傍聴席から: その「4次元」っていうのは?

きりとり: 一次元目はなんですか?

澤: 一般的にはゼロ次元が点、一次元が線、二次元が平面で、三次元目が空間、四次元目は”時間”のことを指していると思うんですが、私が考えている「4次元」っていうのはちょっと違っていて...、「4次元」っていう言葉で表すのが正解かちょっと分からないんですが。「4次元」っていうのは、例えば、すごい遠いけれど近いだったりとか、表から見るけど、それは実は裏だったとか…三次元では表現できないことを、「4次元」という言葉を使っています。

きりとり: あの作品を立体物だと捉えた時に、三次元目ぐらいで終われるかなとも思うんですけれども、それを「4次元」って言い切るのは、絵画に四次元目を付与するという意識ですか?

澤: そうですね。絵画っていうものは、二次元の中で起こっていることっていうのを前提にして、それを三次元に表現することによって、「4次元」を感じ取れるような状態に持っていっているんです。

きりとり: 鑑賞者は、基本的に動的に『絵画』を鑑賞することによって「4次元」目が生まれる?

澤: そうですね。

西原: 澤の「4次元」っていうのは多分「正面性」が大事なんじゃないかなと思っています。絵画における「正面性」っていうのがやっぱり絶対あるのかなと思っていて、澤の撮る写真にしろ、絵画にしろなんですけど、絶対ここの正面で見るだろうっていう視点がまず一つある。そこから、その視点の誘導だけじゃなくて身体の誘導を含めることで「4次元」を視覚的じゃなくて肉体的に感じとるっていうことを多分しているんじゃないかなって思っているんですよね。で、それに対してVRっていうのは完全なる正面性は無く、没入なんですよね。そこの対比があるって私は思いますね。

若山: これを鑑賞せよって言われた時に、じゃあなんか僕らはどこにいるんだろうって。おそらく支持体の中にいるわけですよね、これって。要は描かれているものと同じ次元にいるというか。それがやっぱこれの面白さですよね。描いた人も描かれたものもそれを見る人もこの空間に、ほぼ完璧に一緒の場所にいるっていう。

木村: まず、キャンバスの絵とVR上の絵っていうのは全然違う部分で行われていて、違う作られ方をしているっていう大前提がある上で、あもさんの作品がVRっていものを想定すると見やすくなる瞬間っていうのはおそらくあるんだと僕は思います。今日話をしていて、共通している部分として作品を作るプロセスとしてまず架空の場所があるっていうのは、大前提なんですよ。おかしいですけど。(笑)
作品を作り始めようとした時に、まず実際にあるギャラリーとか部屋の中とかを想定しているのではなくて頭の中にある、空想の場所みたいなものを初めに想定した上で、作り方はわからないし、素材もわからないけれど、取り敢えず「こういうものが作りたい」という想定がある。それをじゃあどうやって現実のところに置くかっていうのを、今度空想の場所なしでもう一回やるっていうのを、僕にしろ西原にしろ、澤にしろ、やってるところがあると僕は思っていて…。澤の写真の話で、僕が大事だと思うのは、日常の中で、「あっこれ『「4次元」』だ」って思って写真を撮る瞬間があるっていうのはすごい面白いことだと思うんです。普通に生きてて「あっこれ『「4次元」』だ」って思う瞬間があって、それは現実で起きてて、だから撮って、写真で残る。それをもう一度、絵で描く。空想の場所を想定することや、現実空間にもう一つ想像の場所を重ね合わせることは、VRの展示を例に出すと分かりやすいです。VRの作品をこうやって展示する、で、絵画もこうやって展示するっていうことは、何が起きるかっていうと...、VR上に一個空間があります。現実にも一個空間があって絵画には絵画の中の絵画空間がありますよね、っていう同時に三つの場所っていうのを頭の中で組み合わせながら展覧会を見ないといけない。澤の写真のプロセスも同様のことが起きていて、日常生活で見つけることができる存在をどうにかこうにか2Dから3Dになる瞬間に同じようなことを想定して、シミュレーションされる。西原の作品の場合は、もっとそれが突き放して表現されているって言ったらいいのかな。

西原:今回は、ギャラリーからと、ある程度の想定、現実に即したものがあったりもします。本質本来、絵を作ることを考える時に、多分澤よりも木村よりもより架空じゃないんですけど…現実空間ではない、もはや宇宙のど真ん中みたいなところで作品を置くことを想定して考えているんじゃないかって、二人に言われたことが実はあるんです。そういったスケールの場所で考えてるのかも。所謂、一般の絵画ってここに『掛ける』っていうオーソドックスなフォーマリズムとか、掛ける場所、どの壁にとか、ホワイトキューブとか、そういう想定がなされて描かれる、作られると思うんですが、自然と制作をしていて、絵にしたくなかった時期もありまして、そうなってくると想定の空間のことを、どこにどう置いて、どう見られるかを何も考えてなかった。その作品が、どんな状態でそれが買い見えるかが一番大事だった。その行為を続けてきた結果、それが、そういった架空の場所が生まれてきたというのが、振り返ってみれば、あった気もするという感じです。

木村: 西原から、最初に実際のものを見て絵を描いて、でも架空でも描いてみたいな話があったと思うんですけど…。実際のものを見て描いているって言っている割に別にそんなことはあったりなかったり僕はすると思っていて、またポートフォリオを見て頂いたらいいと思うんですけど、じゃあ、どういう空間が西原の過去作で生まれているかっていうと、シュールレアリスムみたいなどこまでも続く地平線みたいなものがあったりとか…。その上で僕にしろあもさんにしろ多分構図は作ってるけど構図無しで絵を描こうっていう瞬間があって。それ、どういうことかっていうと、いわゆるさっきのアニメーションみたいなどこまでも空間が続く場所っていうのが、オールオーバーとは全然また違う概念で、「頭の中で場所を想像してください」と言われた時に無重力空間でどこまでも、グラデーションが広がっている空間がなぜか勝手に出てきて、その中で割と小さめの物が頭の中に構成されていく抽象画っていろんなカルチャーを経た上でないと到達しないと思っている。だから現実のものを真似て描いているだけじゃあそこには行かなくて。アニメーションってありますよね、アニメーションって構図はないんですよね。漫画とかイラストで一枚絵とかが多く出回っていて一枚絵とかの方が安いし漫画とかの方が安いっていう時代でアニメなんかは決まった時間にしかやられていない時の子供だったら、アニメよりも漫画の方がリアリティがあるから、構図ができる絵になる。でもそうじゃなくて、今度アニメ世代になったっていった時にどんな絵ができるかって言われたら割と構図がない絵が多い?そうではないか、と思っています。

きりとり: 構図がないってどういうこと?

西原: 視点誘導がないとか…?

木村: 構図がないというのは…このくまの絵の話一番最初にしましたよね?これってこっちが過去作(「けん玉の紙さま」)でこっちが最新作(「けん玉の神さま (v)」)なんですよ。同じモチーフを描いてるけど、全然違うアプローチなんですよ。構図っていうのは、視点誘導の話なんです。普通の平面を長方形に作っちゃうと垂直・水平っていうのがぱしっと見えてきて一番最初にどこに何が見えていて、どの順番にこう見えてくる、という状態が「構図がある絵」の1つの答えです。そこで、良い絵の条件って何かって言われたら、「長時間長く見れる絵」って答える人がすごく多いと思います。それを作るためには、ここから見て、こっからこう見て、ここへまた戻ってくるっていう誘導をどう作るかが問題になってくる。所謂、お手本の構図が何個かあるんですが、僕はそれがなんか面白くないと思っている。でも、複雑な視点誘導が生まれて、長時間見れる絵を描きたいっていう思いはあって…。キャンバスにわざと皺をつけると、その長方形の垂直水平の中では、ここにこういうものを置いたらかっこいい構図ができるとか、こういう構図ができるとか、ある程度決まっていて暗黙のルールに対して、そういうことじゃなく、新しい構図を作るための条件がそこに発生してくる。それに合わせて、絵を描いていって、この皺の入り方でしか成立しない良い構図っていうのを目指しています。
その上で、例えば黒い絵具を使うとか、すごくインパクトのあるものっていうのが一箇所に置かれたら構図が今度作りづらくなるんですよ。なぜかっていうとそこばっかり見て視点誘導が生まれないから。じゃあそこに対して、今度どんなアプローチでそれを回避して長時間見れる絵が作れるか、をやるのが僕は絵画だっていう認識なんですよね。そういうことをやっているのがあの絵で、あれをやりながらVRとかをやっていたわけですよ。

西原: それで、私がなぜ木村くんの構図があるという上で、構図がないと言われる理由として…簡単に言ってしまえば、構図が作れないからっていうのが一つなんです。わからないんですよ。というのが一つあるのと、彼らには重力というものが前提にしてあるから、構図を作れてる部分もある。当たり前の話をしているんですけど 笑 私は多分、地に足が着いてないんですよね。それで360度、見渡しながら絵を描こうとするがあまり、一視点の正面性(ここで言う絵画)に押し込めるということがかなり難しい。だから多分、今ここにこの作品の状態もある種そうなんですけど、更に木村くんのご意見同様、過去作見て頂けると分かりやすいと思うんですが、絵画平面は「その時は、今は、とりあえずここを見た」という視点なんですね、自分の絵画って。すごく難しい話なんですが。
人間が構図を作れて、なぜ視点誘導ができるかというのは、教科書に乗るような文脈としての過去の絵画の話で、そこに一人の人が視点で重力がある故に立って、そこから絵画を見る。そこから更に奥へ奥へという絵画の空間を見るために、そういった操作がされていく。でも、その観客が地に足立っていてという構図だった、という想定など、自分自身がそれを無自覚だった。というのは、自分の視点が立った視点では並列化して見たり、マルチディスプレイ的な視点の方がリアリティがあるからじゃないかなと思っています。
きりとり: ポストインターネットアートの代表的な作品、アラム・バートル(1972-)のMap(2006-)から話してみると、アラム・バートルがGoogle mapのピンという二次元のものを三次元に造形する。もちろん視覚的な面白さがあるわけですが、そもそも、人は「山下公園に行こう」としたら、Googleマップのピンを目指して移動するみたいなことがある。しかし、山下公園についてもピンはその場所にはない。みたいなその時代のリアリティを感じながら、作っていたんですよね。TERRAINでは、インターネットらしいアイコンやコンテンツは一切取り払われ剥落した後に残る身体性みたいなものを追求しているのだと思いました。

若山: インターネットの記号ではなく、インターネットに相対化された身体の在り方、みたいなね。インターネットに鍛錬されて培われていく身体運用の技術を、絵画制作に転用してるというか。

きりとり: 具体的にいうと、西原さんがアニメーションをサンプリングをする時に、ブラウジングの話で、身体があまり動かないで、座りっぱなしと仰っていましたよね。例えば、眼だけでマウスポインターを追うだとか、タッチパネルのOSであればマウスポインタも無かったりする時にあるかもしれない、身体の省略みたいなものを前提としたものの見方や実存を作品にどう置換えていくかということでもあるなと思いました。

木村: それ(現実の物理法則や自身の身体感覚についてどれくらい自覚的に世界を捉えているかということ)が個人によってズレていることが、わりとポイントかなと思います。VRをやると特に分かりやすいです。VR(Tilt Brush)の中で絵を描いて下さいと言って人に渡した時、その人がどれだけ現実に即したものを描くか、みたいなことで見えてきたものや、彫刻を普段やっている人にそれを渡して絵を描いてもらった時の場合、普段はドローイングで描いてたけど、その作品は、実は頭の中ではスケールが違うとか、こうなってたみたいなことがVR下の状況では出てきたりとか…この人はVR(Tilt Brush)で何を描いても、彫刻的に立つように考えて作っているとか、描く際に光の方向をちゃんと考えてものを作っている…みたいな場面があって。実は、インターネットと現実の自分が考えている自分、自分だと思っている身体のズレみたいなことが絶対にあって、そのインターネットと大衆のずれではなくて、インターネットと個人によって起きていくもののズレみたいなところにシフトしているのかな、と今聞いていて思いました。

小林: 今すごく話がいろいろ広がってしまったんですけど、基本的に例えば澤さんの「4次元」という考え方だったり、西原さんの「軽さ」みたいなことも、結構メディアの話になってくると思うんです。きりとりさんが以前書かれていたマクルーハンのメディア論の引用をなさっているテキスト(木村翔馬個展「dreamの後から」記録集寄稿文)があって、古いメディアは新しいメディアのコンテンツになるっていうような部分なんですけど、なんかそれを頭に浮かべながら澤さんの「4次元」の話とかを聞いていました。例えば、絵画が古いメディアだとして、その後に写真っていう新しいメディアが出てきた時に、古いメディアの絵画は写真の(ための)コンテンツになるんですよね。写真の中に映り込む被写体として、オブジェクトとして認識される。メディアが発達していくに従って新しいメディアが古いメディアを飲み込んでいくような現象がずっと続いている。澤さんの「4次元」の感覚は、多分そういう考え方にすごくフィットしていると思います。例えば二次元:平面の絵画を三次元的に捉えて、さらにそれに対して動きを鑑賞者に求めるわけじゃないですか。そうすると絵としては平面なのに、三次元的なオブジェクトとしてそこにあるので、さらに「4次元」を追加された作品に対して、鑑賞者は二段階ぐらいステップが上(低次元から高次元は認識できないので)のところから作品を捉えなければいけないというか。ぺったんこの絵として見てるんじゃなくて立体的でさらに動くモーションをそこに取り入れながら平面を認識していくみたいな、そういう現象が起こっているんだと思うので、だから「4次元」っていう言葉がふさわしいかどうかは別として、ある種、ディメンションを超越していくっていう感覚なんだと思います。例えば、木村くんだとそういう現象が VRの中で、絵画を飛び越えた三次元的な線だとか空間性、重力がないという事を含めてですし、西原さんの「軽さ」っていうものもやっぱりメディアを扱っているんです。実際の作品には手触りがあったり、物としてあるなぁ、と言う感覚がするんですけど、でもその前の段階では、(スマホの画面内の)ペラペラで、光の現象でしかなくて、触ろうにもディスプレイのカチカチした触覚はありますけど (笑)、それ以上の接触はできないので...そういうものをポンとアウトプットしていくみたいな、そういうメディア、ディメンションの飛躍みたいなものがすごく共通している部分なのかなと思います。どうですか?

若山: 翔馬くんの作品を「重力がない」と言えるのかどうか。つまり「VR空間に重力はあるのか」問題。おそらく重力はあるんですよね、ここには?だって、描いたものは浮いているけど、中空に静止していますから。無重力ではなく、反重力的な何かが作用している。って、言っていいのかわからないけど。とにかく、重力はあるんだけれども、僕らが知っている形にはならない。そういうスマホで絵を描くとかでも、予め重力じゃない重力みたいなものが働いた空間で絵を描くことになりますよ。アプリケーションにプログラミングされている、不可視になっている設定みたいなものがある。描かれたものを見ていくことよりも、描画の前提部分やアプリケーションの設定をつぶさに見ていくことの方がまずは重要なのかもしれない。そしたらもう一層広がりが出てくるというか。あるいはその不可視の前提は作品だけじゃなく、今の僕らの身体性を形作っているものだったりする。その前提は僕らの身体の前提でもありえる。

西原: 機械によっても人間の身体の行動はある程度変わってきてしまっているみたいな話でもありますね。

きりとり: ソフトウェアにおけるアーキテクチャの不可視な制御に三人は忠順に、それに乗るということを選択している。アーキテクチャを暴くことによって、世界に蔓延した監視や制御を超えて個の生き様をそれぞれが獲得するという志向性を持った制作を行うというものはあるわけれですが、ガスリー・ロナガン(1984-)のいう「ハッキングVSデフォルト」のデフォルトとは少し違う、アーキテクチャに乗ることによって獲得する身体を通して今を表すということは行われているのだなと思います。

若山: 積極的に全乗りしていくというか。そこに最適化された身体を作っていくことで理解されるのは「ズレ」です。いまの自分たちの身体性を推し量る図るには、別の身体性の獲得に一生懸命になったほうがよい。

西原: むしろこの世代だから受け入れることができるのかな、とも思っていて…特にこの三人の中だと、実は澤が一番違和感なく、Instagramであったり、アプリケーションだったりを生活に入ってきているタイプなんです。ある意味のインターネットのコミュニケーション、mixiだとかそういったものを通ってない。けどInstagram出ましたってなった時はまだ、全部英語のアプリケーションだったし手の出しづらさなどあったりすると思うんですけど、そこを難なく超えて、更にはコミュニケーション取ったりっていう事実もあったり見ていたりもしています。このように自然に取り入れている、自覚無しに。私は、いろんなインターネットコミュニケーションを見てきたから、もうちょっと摩擦があって。スマホが出てきた時はびっくりしたり、反面すぐ慣れたとかあるんですけど、澤に関しては本当に意識せずに取り入れることができるという世代という風にも言えるかもしれないです。

若山: そうそう、そこに全乗りしていく制作態度っていうのは、つまりあるメディアの露悪的に語るっていうことで、ある側面を強調するってこと。そのカッコ付きの絵画を絵画だって言うと、全然ちがう理想を持っていた人たちが「そんなの絵画じゃないやん」って指を指してくると思う。でもそれを言わせたら勝ちというか。それやらせたら「じゃあ、そんなあなたの言ってる“絵画”とはどんなものなのか」って逆に指さされるんで、その人は。各々の絵画論が明らかになって、絵画の認識が複数化されるのは、すごく意味があることだと個人的には思っています。

西原: 三人でやっていると、そこは自覚的な部分と無自覚な部分が行き交う部分でもあって、やっぱりそれは外側からの有難い言葉だと思っています。すみません、ただの感想なんですが。ありがとうございます。

小林: そろそろ予定している時間まであと10分ぐらいなんですが…、本当は各作家さんにもうちょっと制作上の困難だったりだとかお悩み相談みたいなものも事前に想定していたんですが、そこまでは中々踏み込めなかったですね…。多分、それぞれの独立したアーティストとしてやっている中でも、ある程度共通した感覚みたいなものまでは今回の話の中で透けて見えてきた気もするんですが、もしご来場のお客様の方からもご質問があれば聞いてみませんか。批評活動なさっている方とか、同世代の作家さんからでも自分のやっている制作とはこんなに違うけどそこはどうなのかな、とか。

観客A: ベッドでアイフォンで描くって仰ってたと思うんですけど、横になって描くんですか?

西原: 横ですね。右...ああ左...(笑)

観客A: 右だと思ってたんですけど、左なんですね。

西原: 右手が自由に、利き手が自由になるようにと。あとはうつ伏せでちょっと上体を起こしてとかも普通に。

観客A: 横で描いたりしてる、とか、画期的だと思う。残りの充電とか気になりますか?

西原: めっちゃ気になりますね(笑)

きりとり: 横になっていて持ってるから親指の方が空白になりがちなのではと私も思いましたが、そうだったんですね。スマホはリング付きですか?

西原: もはやベッドの枕で支えながら…(笑)

きりとり: 枕よりの方は空白になりがちですか?

西原: 残念ながらキャンバスって回るんですよ(ディスプレイの)中で。回転させながら描いています。

きりとり: 回転させながらぐるぐる回しながら最後に(構図が)決まる?

西原: そうですね。ただ、一番最後の決定って、プロジェクターで投影させた瞬間なんです。

きりとり: センターはキャンバスに対して左右均等?

西原: 実はキャンバスに、張ってから描くのではなくて、布状のままのビニールキャンバスにジェッソを適当にばっとつけたものを、壁に付けてバッと出して、こうだなあ、ここだな、と決めていって..。.

観客A: キャンバスが回ってるって、アイフォンが回ってるんですか?長方形だから絶対90度...

西原: 作品によって違ったりするし、キャンバスを倒す機能によって倒しているわけでもなく、自分で自力でこう回したり広げたりして決定しているので、一概にそこで構造は実は決定していです。

きりとり: そういうので拘束されたシリーズみたいなものもちょっと見てみたいです。

西原: ありがとうございます(笑)ちょっと今は自由にさせてるところでもあります(笑)

木村: 僕はさっき長く説明したようにめっちゃ構図が好きな人なんですよ。でも、僕からすると、どのタイミングでそれでこれ完成だって言う瞬間が来るのかがわからないというか、その辺は?

西原: えっと、プロセスがまずキャンバスを張ってから絵を描くのではなくて布地に描いてからキャンバスに貼るんですよ。

木村: じゃあ、全部偶然性ってことでいいの?

西原: 選択はしているけど、ある程度偶然に頼るところが大きい。そこに個人の選択をいかに少なくするかっていうのが、構取り組みの一つとして大事かなと思っていています。選択に際して、”これじゃないといけない”という風にはしないようにはしています。

小林: 他、どなたかおありでしたら。

観客B: 木村さんに質問なんですが、制作の過程に興味があって。違う想像を想定した上で描くとかいろんな話があったと思うんですけど、木村さんは個人的には想定したイメージをそれに近づけてキャンバスに描きたいのか、最初にそのイメージをなぞって描いているのか、こうなったから次こうしようみたいな。どっちに近いとかそれとも混合するとか、お聞きしてもいいですか?

木村: 例えば、この「けん玉の神様」シリーズの場合は、始めにドローイングを描いているんですよ。僕はドローイングをたくさんするんですが、なんかよくドローイングを毎日して絵を描いているんです、みたいな、トレーニングとかライフワークなんですみたいな話ではなくて、僕の場合はドローイングは「ガチャ」なんですよ。当たりが出るまで引くっていうのを繰り返す。で50枚とか100枚とかまあどこかのタイミングでこれ当たりだって思ったやつを選んで描きます。でもまあ、そうじゃなくてもっと自由な運転の瞬間もあってドローイングのガチャを挟んでいる時はわりと選択しているけど、これ多分人に言われてだんだん気づいてきたんですけど、「どこまでが作品なのか」とか「どこまでが発表なのか」とかがすごく曖昧になっていると僕は思っています。実際、「展示したらそれが発表なんですか」とか、「インターネットに作品の画像あげたらそれが発表なんですか」とか、「インスタレーションや作品群のどこからどこまでが一つの作品なんですか」とかみたいな質問をされることが多いし、まあその質問をされるまでそのことは考えてないことも多い。そうした中で、何であのTilt Brushって、あれを絵画作品と人は認識するのかっていうのを考えたときに、VR上でコントローラーを握って空中に描いていくわけですが、描いていくときにリアルタイムでストロークが保存されていくのを何回も見てるうちに、あ、これ絵かもしれないと思えてくる瞬間っていうものがあって、だから理屈で言えばもちろん彫刻の方が作りやすいけど、あれは絵画として見えるんです。立体物でオブジェクトだとしても、すごく絵画的なプロセスで、なおかつ作品の境界が曖昧でVR自体の世界がどこまで続いているかっていうこともすごく曖昧。そういう中でもっと自由運転で別にこっちがが選択せずに紙に何を描くかっていうのはやっていいと思っていて、伝わっても作家がリアルだと思って記録したスタディワークはそれなりに面白いと僕は思うんです。それもだからみんなが同じものを見ている世界だったら成立しないかもしれないですけど、個人が個人的に生み出したものを個人的に消費しているっていう今の時代だったら個人が個人的に絵画のものを見せるっていうあり方はありだと思っていて、そういう意味で失敗は起きない。これは失敗だと思わないと決めて描いている瞬間はあって、そういった作品もあったりするので、選び取って始めにイメージがある絵っていうのももちろんあるし、わりと何も考えずにこれはもうそういうあり方でいいんだと思って描いてる絵もあって、絵によって混ざってる瞬間もあったりします。

小林: そろそろお時間でもありますので、この辺りで終わりにさせて頂きたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

 



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